[第1戦]
昭和32(1957)年6月2日(日曜日)
米国/ハワイ州ホノルル/ホノルル・シビック・オーデトリアム
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分3本勝負)
ルー・テーズ(2-1)豊登道春
①豊登(13分0秒、サバ折り)テーズ
②テーズ(6分5秒、フォール勝ち)豊登
③テーズ(0分0秒、試合放棄)豊登
レフェリー:フランク・メリル
※L・テーズはNWA認定世界ヘビー級王者。
両雄の初対決は、豊登にとって自身初となる海外遠征の地、ハワイ・ホノルルで実現しました。当時43歳の絶対王者ルー・テーズに対し、果敢に挑んだのは28歳の豊登。セコンドには遠藤幸吉が陣取り、若き怪力を鼓舞します。
1本目、豊登は自慢の豪腕から繰り出すベアハッグ(サバ折り)でテーズを捕らえる大金星を見せ、見事にギブアップを奪って先制しました。しかし、続く2本目は王者の意地が爆発します。テーズの代名詞であるバックドロップが鮮烈に炸裂し、豊登はフォール負けを喫してタイに追いつかれます。そのダメージは深刻で、3本目のゴングが鳴っても豊登は立ち上がることができず、無念の試合放棄。初対決は王者の貫禄勝ちという結果に終わりました。
同年10月、テーズは待望の初来日を果たします。日本での全9試合のうち8試合が力道山とのシングルマッチという大看板興行でしたが、沖縄・那覇市での2連戦のうち1試合ではタッグマッチが組まれました。力道山&豊登組が、ダニー・プレッチェスを引き連れたテーズと激突した一戦は1-1の引き分け。このうち1本目は、テーズがバックドロップで豊登をピンフォールしています。
なお、世界を股にかけて君臨したテーズでしたが、このハワイでの豊登戦から数ヶ月後となる同年11月14日、カナダ・トロントにてディック・ハットンに敗れ、至高のNWA世界王座から転落することとなります。
[第2戦]
昭和34(1959)年12月9日(水曜日)
米国/ハワイ州ホノルル/ホノルル・シビック・オーデトリアム
□シングルマッチ(45分3本勝負)
ルー・テーズ(2-1)豊登道春
①豊登(10分35秒、サバ折り)テーズ
②テーズ(4分5秒、フォール勝ち)豊登
③テーズ(1分40秒、試合放棄)豊登
自身3度目となるハワイ遠征において、豊登は無冠となったルー・テーズとの再戦に臨みました。
1本目、テーズが空中殺法のフライング・ボディシザース・ドロップを仕掛けた瞬間、豊登はその巨体を持ち前の怪力(サバ折り)で完璧に受け止めます。そのまま強烈に絞め上げ、世界のテーズから見事にギブアップを奪って先制しました。
しかし続く2本目、反撃に出たテーズの伝家の宝刀・バックドロップが炸裂。豊登は防戦一方となり、無念のフォール負けを喫してタイに追いつかれます。
運命の決勝戦となった3本目、試合開始早々に非情な結末が訪れます。テーズが放った豪快なボディスラムの衝撃により、豊登は首を激しく負傷。激痛のあまり試合続行不可能となり、またしても無念の試合放棄という幕切れを迎えました。なお、この日の栄光と挫折のリングサイドで豊登を支えたセコンドには、同興行の第1試合に登場していた戦友・吉村道明が就いていたことは想像に難くありません。
[第3戦]
昭和37年5月14日(月曜日)、和歌山県新宮市/権現河原
□ワールドリーグ戦(8分3ラウンド1本勝負)
ルー・テーズ(2R1分26秒、リングアウト)豊登
ルー・テーズが2度目の来日を果たした舞台は「第4回ワールド大リーグ戦」。その歴史的なリーグ公式戦において、両雄による3度目のシングル対決が国内の地でついに実現しました。
1ラウンドのゴングと同時に仕掛けたのは豊登でした。ロープへ力強く飛ぶと、強烈なショルダーブロックで世界のテーズを豪快に吹き飛ばします。すかさずヘッドロックに捕らえ、持ち前の怪力でグイグイと締め上げて主導権を握りました。しかし、百戦錬磨のテーズも黙ってはいません。豊登を巧みにグラウンドへ引きずり込むと、強烈なレッグロックで足元を締め上げ、一進一退の攻防を展開します。
試合が動いたのは2ラウンド。テーズが猛烈な反撃に出ます。容赦ないパンチと鋭いエルボースマッシュの連打で豊登をロープ際まで追い詰めると、そこへ必殺のドロップキックを連発。その衝撃で豊登はたまらずリング下へと叩きつけられます。場外で大ダメージを負った豊登は、無念にもカウント内にリングへ戻ることができず、テーズのリングアウト勝ちという結末を迎えました。
[第4戦]
昭和43年1月7日(日曜日)、長崎県長崎市/長崎市公会堂
□シングルマッチ/ノンタイトル(45分3本勝負)
豊登(2-1)ルー・テーズ
①テーズ(8分57秒、体固め)豊登
②豊登(1分8秒、サバ折り固め)テーズ
③豊登(8分11秒、体固め)テーズ
※L・テーズはTWWA認定世界ヘビー級王者。
テーズにとって3度目の来日時は、豊登がすでに離脱した後の日本プロレスへの参戦でした。そして今回、国際プロレスの「オープニング・ワールド・シリーズ」への参戦に伴い、4度目の来日を果たしたテーズ。その腰には新設されたTWWA認定世界ヘビー級王座のベルトが光っていました。
この至高の「鉄人」に対し、ノンタイトル戦で果敢に挑んだ豊登。激しい攻防が展開された1本目は、テーズが8分57秒、鮮やかな体固めで先制し王者の威厳を見せつけます。しかし、ここから豊登の猛反撃が始まりました。続く2本目、開始わずか1分8秒、自慢の怪力を爆発させたサバ折り固めでテーズを瞬く間にフォールし、試合をタイに戻します。
運命の3本目、豊登はテーズの代名詞であり最大の武器であるバックドロップを強靭な肉体で見事に失敗させ、形勢を逆転。すかさず3カウントを奪い、劇的な勝利を収めました。世界の鉄人ルー・テーズから見事に2フォールを奪い取るという、歴史的快挙を成し遂げた一戦です。
[第5戦]
昭和43年1月12日(金曜日)、福岡県福岡市/九電記念体育館
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分3本勝負)
豊登(2-1)ルー・テーズ
①豊登(5分16秒、サバ折り)テーズ
②テーズ(2分56秒、体固め)豊登
③豊登(4分16秒、反則勝ち)テーズ
レフェリー:フレッド・アトキンス
※L・テーズはTWWA認定世界ヘビー級王者。
長崎での劇的な一戦からわずか5日後、福岡の地でノンタイトルによる再戦の火蓋が切って落とされました。前戦で不覚を取った王者テーズに対し、勢いに乗る豊登が再び牙を剥きます。
1本目、豊登は開始早々から得意の怪力を全開にし、十八番であるサバ折りで見事にテーズからギブアップを奪って先制。長崎に続く連勝へ向けて絶好のスタートを切ります。しかし、世界の鉄人もこのままでは終わりません。続く2本目、テーズは鮮烈なドロップキックを叩き込んで3カウントを奪い、試合をすぐさまタイへと戻しました。
緊迫した展開となった決勝の3本目、試合は意外な結末を迎えます。テーズは豊登をリング下へと叩き落とすと、執拗な攻撃を敢行。豊登がエプロンサイドへ這い上がってきたところへ、容赦ないドロップキックを連発します。しかし、この激しい猛攻がレフェリーのフレッド・アトキンスによって「反則」と裁定されました。まさかの反則負けという形で、テーズは豊登を相手に手痛い2連敗を喫することとなりました。
[第6戦]
昭和43年1月17日(水曜日)、宮城県仙台市/宮城県スポーツセンター
□TWWA認定世界ヘビー級選手権試合(60分3本勝負)
ルー・テーズ(2-1)豊登
①豊登(9分12秒、体固め)テーズ
②テーズ(1分31秒、体固め)豊登
③テーズ(0分0秒、試合放棄)豊登
レフェリー:フレッド・アトキンス
※初代王者L・テーズが王座防衛に成功する。
ノンタイトルの前哨戦で価値ある2連勝を飾った豊登が、ついに鉄人テーズの保持する至高の王座へと挑戦の機会を掴み取りました。
1本目、勢いに乗る豊登が怒涛のラッシュを仕掛けます。必殺のリバース・スープレックス3連発という驚異の力技でテーズをマットへ沈め、9分12秒、見事な体固めで先制。王座奪還へ向けて大きく前進します。しかし、2本目は王者の底力が牙を剥きました。テーズは巨体の豊登をカナディアン・バックブリーカーの体勢で豪快に担ぎ上げると、そのままキャンバスへ容赦なく叩きつけて3カウント。瞬く間に試合をタイへと戻します。
この強烈な一撃によって、豊登の肉体は限界を迎えていました。運命の3本目、ゴングが鳴ったものの、豊登にはすでに戦う気力も体力も残されておらず、無念の試合放棄。テーズが貫禄の王座防衛を果たしました。なお、激闘を制したテーズでしたが、この防衛劇からわずか1週間後、NWA認定世界ジュニアヘビー級王者であるダニー・ホッジに敗れ、TWWAの王座を明け渡すこととなります。
両雄のシングルマッチにおける通算戦績は、豊登の2勝4敗という結果に終わりました。しかし、世界の頂点に君臨し続けた「鉄人」ルー・テーズから、同一試合で2本のフォールを奪い去った豊登の快挙は、日本プロレス史において永久に特筆されるべき偉業と言えます。
[補足・未特定とされる3試合への考察]
日本プロレス史における謎として、当時のメディアの記述と現存する公式記録の間に「3試合の空白」が存在します。
東京スポーツの昭和43年1月14日付(第3面)の記事には、「豊登は過去テーズと六回戦っており、全部負けているが」との記述が見られます。これは長崎大会(1月7日)がすでに終了し、福岡大会(1月12日)が行われた直後の報道となります。豊登がテーズから記念すべき初勝利(2連勝)を挙げた時期であるにもかかわらず、「全部負けている」と書かれている点は、ハワイ時代の過去の対戦成績のみを指していた、あるいは入稿のタイミングによるものと考えられます。しかし、いずれにせよ現在公式に確認できるそれ以前のシングルマッチは、ハワイでの2試合と国内での1試合(ワールド大リーグ戦)を合わせた計3試合のみであり、記事が指摘する「六回」という数字とは一致しません。
この空白の3試合について、豊登のハワイ遠征時における地方興行(ヒロやマウイなど、オアフ島ホノルル以外の主要都市)でマッチメイクされていた可能性が極めて濃厚です。
事実、昭和32(1957)年5月26日から6月9日にかけて行われたハワイツアーにおいて、ルー・テーズはわずか2週間の間に計10試合という過密日程をこなしたという記録が残されています。判明しているだけでも、以下の通り連日のようにビッグマッチが組まれていました。
- 5月26日:ホノルル(対ボボ・ブラジル/王座防衛戦)
- 6月1日:ヒロ(対ハンス・シュナーベル/ノンタイトル戦)
- 6月2日:ホノルル(対豊登道春/ノンタイトル戦 ※前述の第1戦)
- 6月9日:ホノルル(対アル・ロロタイ/王座防衛戦)
この驚異的なスケジュールを鑑みれば、記録が散逸しやすい地方都市の興行において、豊登とのノンタイトルマッチがさらに行われていた可能性は十分にあります。あるいは、昭和34(1959)年12月にテーズが再びハワイへ来島した際にも、ホノルル・シビック以外での再戦が組まれていたのかもしれません。
のちに国際プロレスのリングで鉄人を破る豊登の怪力とスタイルは、この公式記録の裏に隠された「ハワイ諸島での知られざる激闘の数々」によって培われたのではないか――東スポの一行は、そんな昭和プロレスのロマンあふれる背景を今に伝えています。