昭和プロレスの秘史! 力道山最後の秋に開催された幻の若手トーナメント「関西の牙」の全貌

 プロレス界のオールドファンであれば、一度はこのようなエピソードを耳にしたことがあるのではないでしょうか。
「昭和38年の秋、若き日の上田馬之助が若手トーナメント『関西の牙』で優勝した――」

 しかし、このトーナメントがいったいいつ、どこで、どのような選手たちによって争われたのか、その具体的な全容を知るファンは決して多くありません。それもそのはず、当時の主要スポーツ紙である『東京スポーツ』『日刊スポーツ』『スポーツニッポン』、さらにはベースボール・マガジン社の『プロレス&ボクシング』といった専門誌を紐解いても、この大会に関する詳細な記述は見当たらないのです。

 プロレス史のエアポケットに埋もれていたこの幻のトーナメントについて、様々な当時の新聞を網羅的に調査した結果、ついにその全容を掴むことに成功いたしました。これまで謎に包まれていた理由は、主催・後援の背景にありました。この大会は、当時の有力夕刊紙を発行していた新大阪新聞社が全面後援する地方限定の企画だったのです。

 新大阪新聞社は、昭和21(1946)年から平成7(1995)年まで夕刊紙『新大阪』を発行していた新聞社で、プロレスファンにはお馴染みの激熱プロレス新聞『週刊ファイト』を昭和42(1967)年に創刊した会社としても知られています。東京スポーツ新聞社が主催する「東スポ賞争奪戦」が他紙に掲載されないのと同様に、「関西の牙」もまた『新大阪』の独占スクープ記事として扱われていたため、全国的な記録に残りにくかったのです。

 この記念すべきトーナメントについて、初めて詳細に報じられたのは『新大阪』の昭和38(1963)年10月12日付号(前日11日発行)でした。

(『新大阪』昭和38年10月5日付第1面、国立国会図書館東京本館所蔵)

力道山時代の終焉直前、「プロレス秋の陣」の舞台裏

 昭和38年10月といえば、日本プロレス界にとっては激動の時代でした。この年の12月に日本のプロレスの祖である力道山が急逝するため、まさに「力道山が健在だった最後の秋」にあたります。当時、日本プロレスは「オリンピック協賛、秋季ワールド戦(9月20日~11月8日、全40戦)」という一大シリーズの真っ最中でした。世間が豪華な外国人レスラーや力道山、豊登らの動向に目を奪われる中、関西の4会場(5日間)を舞台に、未来の日本プロレスを背負って立つ若き狼たちによる「関西の牙」争奪トーナメントが開催されたのです。

 その過酷なスケジュールは以下の通りでした。

  昭和38年10月12日(土曜日)、和歌山県和歌山市/和歌山市本町公園----1回戦6試合
  昭和38年10月13日(日曜日)、奈良県奈良市/奈良ドリームランド前広場--2回戦4試合
  昭和38年10月14日(月曜日)、興行は休み
  昭和38年10月15日(火曜日)、兵庫県尼崎市/尼崎市体育会館-------準決勝戦2試合
  昭和38年10月16日(水曜日)、兵庫県姫路市/姫路市厚生会館-------決勝戦、3位決定戦

後のメインイベンターがズラリ! 豪華すぎる「14名」の若手たち

 エントリーされた14名の顔ぶれを見ると、昭和のプロレス黄金期を支えたレジェンドたちの若き日の姿が浮かび上がります。なお、のちに大日本プロレスを設立するグレート小鹿(小鹿信也)は、このシリーズ中の10月13日の奈良大会でデビューするため、惜しくもこのトーナメントにはエントリーされていません。

  • 上田馬之助(上田裕司):のちに日本初の本格的本格派金髪ヒールとして一世を風靡。
  • 平野岩吉(平野愿一):黎明期を支えた実力派レスラー。
  • 駒角太郎(駒秀雄、駒厚秀):のちに全日本プロレスで活躍。
  • 山本小鉄:星野勘太郎との「ヤマハ・ブラザーズ」で活躍し、新日本プロレスの「鬼軍曹」として若手を育成。
  • 吉原功:早稲田大学のレスリング部で活躍し、プロレス入り。のちに国際プロレスの社長として日本初のデスマッチを導入。
  • 松岡巌鉄(松岡正夫):海外マットでミスター・オータとして大活躍。
  • 高崎山猿吉(北沢幹之、魁勝司):新日本プロレス旗揚げに参加し、若手の高い壁となった名バイプレイヤー。
  • 大熊熊五郎(大熊元司):のちにグレート小鹿との「極道コンビ」で全日本プロレスの名脇役となる。
  • 本間乃久六(本間和夫):大相撲からプロレス入り。当時頭角を現していた若手レスラー。
  • ミスター鈴木(鈴木勝義、マティ鈴木):のちに海外に渡り、米国や全日本プロレスで活躍した名レスラー。
  • 大坪飛車角(大坪清隆):ダイナミックなファイトで知られた実力者。のちに日本プロレスのコーチに就任。
  • 平井新吾(平井光明、ミツ・ヒライ):のちに全日本プロレス等でテクニシャンとして活躍。
  • 星野勘太郎(星野建夫):山本小鉄とのコンビや、のちの「魔界倶楽部総裁」として強烈なインパクトを残す。
  • 林牛之助(林幸一):のちに全日本プロレスのレフェリーやフロントとして活躍。

 このそうそうたるメンバーの組み合わせ抽選は、10月9日の富山大会(富山市体育館)の会場にて、なんと力道山みずからの立会いのもとで行われました。全選手が緊張の面持ちでくじを引き、先輩の吉村道明に結果を報告してトーナメント表が完成したといいます。

 あらかじめ設定された基本ルールは以下の3点でした。
1.14選手によるイリミネーション(勝ち抜き)トーナメント。
2.15分1本勝負。
3.豊登道春、吉村道明、遠藤幸吉、芳の里、九州山(レフェリー兼任)の5人が審査員(ジャッジ)を務め、時間切れ引き分けの場合はこの5人の判定で優劣を決める。

 しかし、実際の興行では2つの臨機応変な変更(あるいはハプニング)が生じていました。ひとつは、決勝戦が当初の「15分1本勝負」ではなく、当時の新聞によると「時間無制限1本勝負」へと変更された点です。若手とはいえ、王座決定戦にふさわしい完全決着の舞台が用意されたと言えます。

 もうひとつは、審査員の人数です。10月13日の奈良大会で行われた「吉原功 対 松岡巌鉄」が時間切れとなり、判定が「2-2」の同点になったため、なんと「抽選(くじ引き)」で吉原の勝判定が下されたのです。5人の審査員がいれば必ず「3-2」などで決着がつくはずですから、この日はレフェリーの九州山がジャッジから外れていたか、誰か1人が欠席していた可能性が高く、当時の大らかな興行運営を物語る面白いエピソードです。

激闘の記録:牙を剥き出しにした若き狼たちの全戦績

 当時の『新大阪』が報じた、生々しい試合結果の詳細は以下の通りです。

 昭和38(1963)年10月12日(土曜日)、和歌山県和歌山市/和歌山市本町公園
□関西の牙争奪トーナメント1回戦(15分1本勝負)
  本間乃久六(判定勝ち)大熊熊五郎
    レフェリー:九州山、ジャッジ:豊登道春、吉村道明、遠藤幸吉、芳の里、九州山
   ※本間乃久六が2回戦進出を決める。
□関西の牙争奪トーナメント1回戦(15分1本勝負)
  平野岩吉(判定勝ち)駒角太郎
    レフェリー:九州山、ジャッジ:豊登道春、吉村道明、遠藤幸吉、芳の里、九州山
   ※平野岩吉が2回戦進出を決める。
□関西の牙争奪トーナメント1回戦(15分1本勝負)
  大坪飛車角(7分0秒、片腕固め)ミスター鈴木
    レフェリー:九州山、ジャッジ:豊登道春、吉村道明、遠藤幸吉、芳の里、九州山
   ※大坪飛車角が2回戦進出を決める。
□関西の牙争奪トーナメント1回戦(15分1本勝負)
  松岡巌鉄(6分48秒、片エビ固め)高崎山猿吉
    レフェリー:九州山、ジャッジ:豊登道春、吉村道明、遠藤幸吉、芳の里、九州山
   ※松岡巌鉄が2回戦進出を決める。
□関西の牙争奪トーナメント1回戦(15分1本勝負)
  吉原功(7分4秒、逆エビ固め)山本小鉄
    レフェリー:九州山、ジャッジ:豊登道春、吉村道明、遠藤幸吉、芳の里、九州山
   ※吉原功が2回戦進出を決める。
□関西の牙争奪トーナメント1回戦(15分1本勝負)
  星野勘太郎(10分47秒、体固め)平井新吾
    レフェリー:九州山、ジャッジ:豊登道春、吉村道明、遠藤幸吉、芳の里、九州山
   ※星野勘太郎が2回戦進出を決める。

 昭和38(1963)年10月13日(日曜日)、奈良県奈良市/奈良ドリームランド前広場
□関西の牙争奪トーナメント2回戦(15分1本勝負)
  上田馬之助(7分45秒、片腕固め)平野岩吉
    レフェリー:九州山、ジャッジ:豊登道春、吉村道明、遠藤幸吉、芳の里
   ※上田馬之助が準決勝戦進出を決める。
□関西の牙争奪トーナメント2回戦(15分1本勝負)
  星野勘太郎(判定勝ち)林牛之助
    レフェリー:九州山、ジャッジ:豊登道春、吉村道明、遠藤幸吉、芳の里
   ※星野勘太郎が準決勝戦進出を決める。
□関西の牙争奪トーナメント2回戦(15分1本勝負)
  大坪飛車角(7分30秒、片エビ固め)本間乃久六
    レフェリー:九州山、ジャッジ:豊登道春、吉村道明、遠藤幸吉、芳の里
   ※大坪飛車角が準決勝戦進出を決める。
□関西の牙争奪トーナメント2回戦(15分1本勝負)
  吉原功(判定勝ち)松岡巌鉄
    レフェリー:九州山、ジャッジ:豊登道春、吉村道明、遠藤幸吉、芳の里
   ※判定が2-2となったため、抽選によって吉原功が決勝戦に進出することになる。

 昭和38(1963)年10月15日(火曜日)、兵庫県尼崎市/尼崎市体育会館
□関西の牙争奪トーナメント準決勝戦(15分1本勝負)
  星野勘太郎(11分50秒、体固め)大坪飛車角
    レフェリー:九州山、ジャッジ:豊登道春、吉村道明、遠藤幸吉、芳の里
   ※星野勘太郎が決勝戦進出を決める。
□関西の牙争奪トーナメント準決勝戦(15分1本勝負)
  上田馬之助(7分43秒、逆腕固め)吉原功
    レフェリー:九州山、ジャッジ:豊登道春、吉村道明、遠藤幸吉、芳の里
   ※上田馬之助が決勝戦進出を決める。

 昭和38(1963)年10月16日(水曜日)、兵庫県姫路市/姫路市厚生会館
□関西の牙争奪トーナメント3位決定戦(15分1本勝負)
  大坪飛車角(10分20秒、逆腕固め)吉原功
   ※大坪飛車角が3位入賞となる。
□関西の牙争奪トーナメント決勝戦(時間無制限1本勝負)
  上田馬之助(3分50秒、逆腕固め)星野勘太郎
   ※上田馬之助が優勝し、第1回関西の牙賞と新大阪賞を獲得する。

「関西の牙」が遺したもの

 大会終了後の『新大阪』10月18日付号では、上田馬之助の圧倒的な優勝劇が紙面を大きく飾りました。まだ金髪に染める前、若き正統派の大型レスラーとして期待されていた上田が、その類稀なる素質を見せつけた記念碑的な大会だったと言えます。

(『新大阪』昭和38年10月18日付第1面、国立国会図書館東京本館所蔵)

 決勝で敗れたとはいえ、突貫ファイトで鳴らした星野勘太郎。そして1回戦で散った山本小鉄。この2人がのちに伝説のタッグチーム「ヤマハ・ブラザーズ」を結成し、アメリカや日本で大暴れすることになるのは、プロレスファンの知るところです。

 力道山が逝去する直前のわずかな期間に、関西の地で熱く燃え上がった若き狼たちの叙事詩。専門誌にすら載らなかったこの「関西の牙」トーナメントこそ、昭和プロレスの黄金期を支えた男たちの、原点とも言える伝説のプロローグだったのです。

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