アントニオ猪木 対 フリッツ・フォン・エリック

 昭和のプロレス黄金期において、「鉄の爪」の異名で日本のファンを恐怖と興奮のどん底に突き落とした男がいました。テキサスの帝王、フリッツ・フォン・エリックです。巨体を誇り、相手の胃袋や頭蓋骨を巨大な握力で握り潰す「アイアンクロー」は、まさに一撃必殺の破壊力を持っていました。

 日本のファンにとって、エリックの宿敵といえばジャイアント馬場を思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし、燃える闘魂・アントニオ猪木とエリックの間にも、血に飢えた狼同士が牙を剥き合うような、凄絶な戦いの歴史が存在していました。

 多くのオールドファンは、昭和46(1971)年の緊迫した王座防衛戦を記憶していることでしょう。しかし、その前年に行われた日本での初対決こそ、2人の野生の強さが最も激しく火花を散らした一戦でした。さらに時間を遡れば、若き日の猪木がアメリカで味わった、テキサスにおける文字通りの「巨大な壁」としてのエリックが存在していました。2人の天才レスラーが繰り広げた、世紀のライバルストーリーの全貌を振り返ります。

[昭和40(1965)年]

ガルフ・アスレチック・クラブ(NWAヒューストン・オフィス)

 昭和40(1965)年8月11日(曜日)
 米国/テキサス州サンアントニオ/サンアントニオ・レスルソン
□NWA認定テキサスヘビー級選手権試合(3本勝負)
  フリッツ・フォン・エリック(2-1)猪木完至
   ③エリック(リングアウト)猪木
   ※F・V・エリックが王座防衛に成功する。

 昭和40(1965)年8月13日(曜日)
 米国/テキサス州ヒューストン/サム・ヒューストン・コロシアム
□NWA認定テキサスヘビー級選手権試合(3本勝負)
  フリッツ・フォン・エリック(2-1)猪木完至
   ③エリック(リングアウト)猪木
   ※F・V・エリックが王座防衛に成功する。

[昭和45(1970)年]

ダイナミック・シリーズ[アイアンクロー・シリーズ](日本プロレス)

 昭和45(1970)年3月5日(木曜日)、愛知県刈谷市/刈谷市体育館
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分3本勝負)
  フリッツ・フォン・エリック(1-1)アントニオ猪木
   ①エリック(21分14秒、体固め)猪木
   ②猪木(15分10秒、逆さ押さえ込み)エリック
   ③エリック(5分16秒、両者リングアウト)猪木
   ※F・V・エリックはNWA認定アメリカンヘビー級王者。

[昭和46(1971)年]

サマー・ミステリー・シリーズ(日本プロレス)

 昭和46(1971)年9月6日(月曜日)、北海道札幌市/北海道立札幌中島スポーツセンター
□NWA認定ユナイテッドナショナルヘビー級選手権試合(60分3本勝負)、レフェリー:ユセフ・トルコ
  アントニオ猪木(1-1)フリッツ・フォン・エリック
   ①エリック(10分45秒、胃袋掴み)猪木
   ②猪木(1分10秒、体固め)エリック
   ③猪木(5分10秒、両者リングアウト)エリック
   ※第6代王者A猪木が3度目の防衛に成功する。

 2人の日本国内でのシングルマッチは、昭和45(1970)年3月5日の刈谷市体育館での初対決、および昭和46(1971)年9月6日の札幌中島スポーツセンターでのユナイテッドナショナルヘビー級王座防衛戦のわずか2試合のみです。

 特に札幌での最後の対戦は、当初来日予定だったザ・シークのドタキャンにより、急遽エリックが代役として挑戦するという緊迫したシチュエーションでした。その2日前、田園コロシアムでジャイアント馬場のインターナショナルヘビー級王座に挑み、反則負けでベルトを逃していたエリックの執念は凄まじいものでした。1本目、エリックの容赦ないストマッククロー(胃袋掴み)の前に、さしもの猪木も悶絶し、ギブアップを喫します。後がない2本目、猪木は乾坤一擲のバックドロップを炸裂させてタイに追いつき、3本目は壮絶な乱闘の末に両者リングアウト。辛くも王座防衛を果たしたものの、これが両者の日本における最後の果し合いとなりました。

 しかし、オールドファンにとって札幌の死闘と同じほど鮮烈だったのが、その1年半前の昭和45(1970)年3月5日、愛知県刈谷市体育館で行われた日本初の一騎打ちです。当時、NWA認定アメリカンヘビー級王者として破竹の勢いを見せていたエリックに対し、猪木はノンタイトルマッチながら持てるすべての技術で挑みました。1本目、猪木は得意のドロップキックを2発放ちますが、老獪なエリックにこれを見切られて自爆させられます。すかさずエリックは強烈なニードロップを連発し、21分14秒、体固めで先制しました。後がない2本目、猪木はエリックの一瞬の隙を見逃さず、15分10秒に芸術的な逆さ押さえ込みを鮮やかに決めてタイに追いつきます。そして迎えた運命の3本目、両者はリングの外に落ちてもなお、執念に満ちた泥泥の乱闘を続け、5分16秒に両者リングアウト。お互いの意地が完全にぶつかり合った、凄絶な引き分けとなりました。

 これら日本での激闘より前に、両者の因縁はアメリカで始まっていました。初の海外武者修行に出た猪木が、昭和40(1965)年にテキサスの地で、当時エリックが君臨していたNWA認定テキサスヘビー級王座に2度も挑戦していたのです。

 このテキサスヘビー級王座は、世界最高峰のNWA世界ヘビー級王座へ直結する、全米でも屈指の権威と歴史を誇る伝統のタイトルでした。当時、この王座を保持してテキサス最凶のトップヒールとして暴れ回っていたエリックは、独自の防衛ロードを驀進していました。アーニー・ラッドやペッパー・ゴメズ、デューク・ケオムカ、ボブ・エリスといった全米の超大物強豪レスラーを次々と退け、後に自身の愛息であるエリック兄弟へと受け継がれていくこの至高の王座は、テキサスプロレスの最高峰と言える存在でした。

 その牙城に挑んだ若き日の猪木(当時は猪木完至)でしたが、8月11日のサンアントニオ戦、8月13日のヒューストン戦ともに、王者の容赦ないラフファイトの前に3本目で場外カウントアウト負けを喫しています。しかし、このテキサスの荒野で世界最高峰の壁にぶつかり、貪欲に勝利を渇望した経験こそが、のちの「燃える闘魂」の原点になったといっても過言ではありません。

 最後の闘いから14年後の昭和60(1985)年、時代は移り変わり、猪木が率いる新日本プロレスは長年ビジネスパートナーであったWWFとの提携を解消します。その新たな布石として猪木が手を組んだ相手こそ、かつての宿敵エリックでした。エリックが率いるテキサス地区との業務提携により、次男ケビン・フォン・エリックと四男ケリー・フォン・エリックの「エリック兄弟」が新日本プロレスのリングに登場します。彼らは猪木の遺伝子を受け継ぐ藤波辰巳や木村健吾らと、かつての父親たちを彷彿とさせるような名勝負を繰り広げ、日本のファンを再び熱狂させました。

 テキサスの荒野でぶつかり合った若き日の情熱から、日本での至高のシングルマッチ、そして次世代へと受け継がれた血の因縁。アントニオ猪木とフリッツ・フォン・エリックの闘いは、昭和プロレス史に燦然と輝く、男たちのロマンそのものだったのです。

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