昭和のプロレスファンを熱狂させた数々の名勝負のなかでも、ともに一時代を築いた「テキサスの若きエース」と「AWAの絶対王者」による果てしない技術戦は、今なお色褪せぬ輝きを放っています。その2人こそ、ドリー・ファンク・ジュニアとニック・ボックウィンクルです。
2人の運命が初めて交わったのは、昭和42(1967)年のことでした。舞台はアメリカ国内ではなく、遠く離れたオーストラリアの地です。ファンク、ボックウィンクルともに2度目となる豪州遠征の初戦、14選手が参加したワンナイト・トーナメントの1回戦でいきなり一騎打ちが実現しました。
当時、デビュー5年目で26歳の若きファンクに対し、ボックウィンクルはデビュー14年目を迎えた32歳のベテラン。この記念すべき初対決はボックウィンクルに軍配が上がりました。1回戦を突破したボックウィンクルは、続く2回戦でグレート・マレンコに反則勝ちを収めたものの、惜しくも準決勝戦でザ・ビースト(ユーボン・コーミアー)に敗れています。その後、2人はテレビマッチで再戦しますが、こちらは時間切れに終わり決着はつきませんでした。
翌昭和43(1968)年、ボックウィンクルがファンクの本拠地であるテキサス州アマリロ地区(NWAウェスタン・ステーツ・スポーツ)へと転戦してきたことで、抗争は本格化します。このアマリロ地区ではシングルマッチで7回対戦。記録上、結果が判明している3試合は1勝1敗1分けと、まさに互角の展開を繰り広げました。
そして昭和44(1969)年2月11日、ファンクはフロリダ州タンパでジン・キニスキーを破り、第10代のNWA認定世界ヘビー級王者に君臨します。世界王者となったファンクを追いかけるように、ボックウィンクルは翌昭和45(1970)年にジョージア地区へと転戦。ここでボックウィンクルには、通算5回にも及ぶNWA世界王座挑戦のチャンスが巡ってきました。しかし、ファンクが意地を見せて2勝(うち1勝は反則勝ち)3分けという結果を残し、ボックウィンクルの世界王座奪取の野望をことことく退けたのです。
本稿では、アメリカから日本、そして時空を超えた伝説の最終戦まで、昭和プロレス史を彩った最高峰のテクニシャン2人による熱い激闘の全記録を振り返ります。
[昭和42(1967)年]
ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(WCW=オーストラリア版)
昭和42(1967)年1月20日(金曜日)
オーストラリア連邦/ニューサウスウェールズ州シドニー/シドニー・スタジアム
□ワンナイト・トーナメント1回戦
ニック・ボックウィンクル(勝ち)ドリー・ファンク・ジュニア
※N・ボックウィンクルが2回戦進出を決める。
昭和42(1967)年2月4日(土曜日)
オーストラリア連邦/ニューサウスウェールズ州シドニー/会場名不明
□シングルマッチ
ドリー・ファンク・ジュニア(時間切れ)ニック・ボックウィンクル
※日付はテレビの放映日。
[昭和43(1968)年]
NWAウェスタン・ステーツ・スポーツ
昭和43(1968)年4月27日(土曜日)
米国/テキサス州アマリロ/会場名不明
□シングルマッチ
ドリー・ファンク・ジュニア(時間切れ)ニック・ボックウィンクル
昭和43(1968)年5月2日(木曜日)
米国/テキサス州アマリロ/アマリロ・スポーツ・アリーナ
□シングルマッチ(3本勝負)
ニック・ボックウィンクル(2-1)ドリー・ファンク・ジュニア
※試合時間は28分15秒。
昭和43(1968)年6月2日(日曜日)
米国/ニューメキシコ州アルバカーキ/アルバカーキ・シビック・オーデトリアム
□シングルマッチ
ドリー・ファンク・ジュニア(結果不明)ニック・ボックウィンクル
昭和43(1968)年8月18日(日曜日)
米国/ニューメキシコ州アルバカーキ/アルバカーキ・シビック・オーデトリアム
□シングルマッチ
ドリー・ファンク・ジュニア(結果不明)ニック・ボックウィンクル
昭和43(1968)年9月11日(水曜日)
米国/テキサス州エルパソ/ウィリアム・ボーモント・ジェネラル・ホスピタル
□シングルマッチ
ドリー・ファンク・ジュニア(結果不明)ニック・ボックウィンクル
昭和43(1968)年10月10日(木曜日)
米国/テキサス州アマリロ/アマリロ・スポーツ・アリーナ
□シングルマッチ
ドリー・ファンク・ジュニア(10分22秒、勝ち)ニック・ボックウィンクル
昭和43(1968)年10月13日(日曜日)
米国/ニューメキシコ州アルバカーキ/アルバカーキ・シビック・オーデトリアム
□シングルマッチ
ドリー・ファンク・ジュニア(結果不明)ニック・ボックウィンクル
[昭和45(1970)年]
ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
昭和45(1970)年1月28日(水曜日)
米国/ジョージア州コロンバス/コロンバス・ミュニシパル・オーデトリアム
□NWA認定世界ヘビー級選手権試合(3本勝負)
ドリー・ファンク・ジュニア(2-1)ニック・ボックウィンクル
③ジュニア(反則勝ち)ボックウィンクル
※第10代王者D・F・ジュニアが王座防衛に成功する。試合時間は29分0秒。
昭和45(1970)年4月10日(金曜日)
米国/ジョージア州アトランタ/アトランタ・シティ・オーデトリアム
□NWA認定世界ヘビー級選手権試合(60分勝負)
ドリー・ファンク・ジュニア(時間切れ)ニック・ボックウィンクル
※第10代王者D・F・ジュニアが王座防衛に成功する。
昭和45(1970)年6月9日(火曜日)
米国/ジョージア州サバンナ/サバンナ・スポーツ・アリーナ
□NWA認定世界ヘビー級選手権試合(3本勝負)
ドリー・ファンク・ジュニア(1-1)ニック・ボックウィンクル
③ジュニア(両者カウントアウト)ボックウィンクル
※第10代王者D・F・ジュニアが王座防衛に成功する。
昭和45(1970)年6月26日(金曜日)
米国/ジョージア州アトランタ/アトランタ・シティ・オーデトリアム
□NWA認定世界ヘビー級選手権試合
ドリー・ファンク・ジュニア(勝ち)ニック・ボックウィンクル
※第10代王者D・F・ジュニアが王座防衛に成功する。試合時間は38分0秒。
昭和45(1970)年8月14日(金曜日)
米国/ジョージア州アトランタ/アトランタ・シティ・オーデトリアム
□NWA認定世界ヘビー級選手権試合(60分勝負)
ドリー・ファンク・ジュニア(時間切れ)ニック・ボックウィンクル
※第10代王者D・F・ジュニアが王座防衛に成功する。
[昭和53(1978)年]
’78世界最強タッグ決定リーグ戦(全日本プロレス)
昭和53(1978)年12月4日(月曜日)、大分県大分市/大分県営体育館
□シングルマッチ/ノンタイトル(30分1本勝負)
ニック・ボックウィンクル(時間切れ)ドリー・ファンク・ジュニア
※N・ボックウィンクルはAWA認定世界ヘビー級王者。
[昭和55(1980)年]
’80世界最強タッグ決定リーグ戦(全日本プロレス)
昭和55(1980)年12月10日(水曜日)、栃木県宇都宮市/栃木県体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
ドリー・ファンク・ジュニア(時間切れ)ニック・ボックウィンクル
[平成5(1993)年]
ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(WCW)
平成5(1993)年5月23日(日曜日)
米国/ジョージア州アトランタ/オムニ・コロシアム
□シングルマッチ(15分1本勝負)
ドリー・ファンク・ジュニア(時間切れ)ニック・ボックウィンクル
ジョージア地区での激しいタイトルマッチを最後に、2人の足跡はしばらく交わることがありませんでした。しかし、それから8年の歳月を経て、戦いの舞台は太平洋を渡り、ここ日本でふたたび幕を開けます。
昭和53(1978)年、全日本プロレスの「’78世界最強タッグ決定リーグ戦」にともに参戦した両雄は、12月4日の大分県営体育館で久々のシングルマッチに臨みました。当時、ボックウィンクルは世界最高峰の権威を誇るAWA世界ヘビー級王者として全日本のリングに上がっていましたが、試合は30分1本勝負のノンタイトル戦。結果は互いの技術ががっちりと噛み合ったまま、30分時間切れの引き分けとなりました。2年後の「’80世界最強タッグ決定リーグ戦」栃木県体育館大会での再戦でも、その牙城は崩れず、またしても30分時間切れドローに終わっています。
そこからさらに12年半の時が流れた平成5(1993)年5月23日、2人の「最後のシングルマッチ」が行われました。舞台は、メディア王であるテッド・ターナーがオーナーを務めていた米国のメジャー団体WCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)。アトランタのオムニ・コロシアムで開催されたペイパービュー興行「WCWスランボリー1993」において、かつての名レスラーたちを称える「レジェンズ・マッチ」の一環として、この世紀の一戦が組まれたのです。15分1本勝負という限られた時間のなか、往年の名技を披露し合った2人のラストマッチは、やはり時間切れの引き分け。大歓声のなかで2人のライバルストーリーは美しく完結しました。
オーストラリア、アメリカ各地、日本、 Thur そして再びアメリカへ。足掛け26年にわたり、通算17回行われた2人のシングルマッチは、結果が判明している13試合においてファンクの3勝(1反則勝ち含む)2敗8分けという、極めて伯仲した生涯戦績を残しました。
面白いことに、2人が初めて拳を交えた昭和42(1967)年の団体もオーストラリアの「WCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)」であり、最後に肌を合わせた平成5(1993)年の団体もアメリカの「WCW」でした。同じ「WCW」というアルファベット3文字の名称を持つ、全く別々の団体で始まり、そして終わった2人の激闘の歴史。プロレスの神様が仕組んだかのような不思議な因縁を感じずにはいられません。