アントニオ猪木 対 アブドーラ・ザ・ブッチャー

 アントニオ猪木とアブドーラ・ザ・ブッチャー。昭和のプロレス黄金期を鮮烈に彩った両雄の軌跡は、過激な闘魂と狂気の凶器が火花を散らす、壮絶なドラマの連続でした。

 「黒い呪術師」の異名を持つアブドーラ・ザ・ブッチャーが、日本のマットに初めてその足跡を刻んだのは、昭和45(1970)年のことです。日本プロレスが開催した「サマー・ビッグ・シリーズ」(8月21日~9月17日)へ初来日を果たしたブッチャーは、巨体に似合わぬ俊敏な動きと、空手特訓で磨いた地獄突きを武器に一躍トップヒールの座へと駆け上がりました。この初参戦シリーズにおいて、のちに宿敵となるアントニオ猪木との電撃的なシングルマッチこそ実現しなかったものの、タッグマッチや6人タッグマッチにおいて実に8回もの激突を展開。互いの存在を強く意識し合う前哨戦となったのです。

 両者の記念すべき初の一騎打ちが実現したのは、翌昭和46(1971)年の「第13回ワールド大リーグ戦」でした。リーグ公式戦で2度にわたり激突した両雄ですが、いずれも凄惨な死闘となりました。ブッチャーが隠し持った凶器で猪木の額を血に染めれば、猪木も怒りの闘魂を爆発させて猛反撃に出るという、息をもつかせぬ攻防が繰り広げられます。結果は、猪木がブッチャーの暴走を誘い込んでの反則勝ちと、執念のリングアウト勝ちを収めて2連勝。技の応酬を超えた情念のぶつかり合いは、全国のファンを大いに熱狂させました。

 しかし、運命の糸は2人を一時的に引き裂きます。翌昭和47(1972)年の「第14回ワールド大リーグ戦」にブッチャーが再来日したときには、すでに猪木は日本プロレスを去り、自らの理想を掲げて新日本プロレスを旗揚げしていました。そのため、このシリーズでの接触は完全に断たれてしまいます。さらにこの年の暮れ、プロレス界の勢力図が激変する中で、ブッチャーはジャイアント馬場が率いる全日本プロレスへと主戦場を移すことになりました。

 全日本プロレスに定着したブッチャーは、看板レスラーであるジャイアント馬場をはじめ、若き大器のジャンボ鶴田、白覆面の魔王ザ・デストロイヤーらと幾多の名勝負を繰り広げ、押しも押されもせぬ「日本一の高給取り外国人レスラー」としての地位を確立します。そんな中、昭和54(1979)年8月26日、日本武道館において歴史的な「東京スポーツ新聞社創立20周年記念プロレス夢のオールスター戦」が開催されました。ここで奇跡の「B・I砲」が復活し、「ジャイアント馬場&アントニオ猪木対アブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シン」という、夢の大物タッグマッチが実現したのです。全日本と新日本の「極悪ヒールコンビ」を前に、猪木とブッチャーが肌を合わせる光景に、超満員の観衆は狂喜乱舞しました。

 このオールスター戦から時を経た昭和56(1981)年、プロレス界を揺るがす大事件が起きます。全日本の牙城であったブッチャーが、新日本プロレスへと電撃的に引き抜かれたのです。この歴史的な移籍を経て、昭和57(1982)年1月28日、東京都体育館のリングで実に10年8か月ぶりとなる猪木とのシングルマッチが遂に実現しました。待望の黄金カードに場内は異常な熱気に包まれましたが、試合は凄惨を極める乱闘の末、ミスター高橋レフェリーの制止も虚しく反則裁定となり、決着は次回へと持ち越されることになりました。

 その後、ブッチャーは新日本のマットに何度も上がったものの、互いのスケジュールや思惑が交錯し、猪木との一騎打ちはなかなか組まれませんでした。しかし、ファンの焦燥感が最高潮に達した昭和60(1985)年1月25日、「新春黄金シリーズ」の山口県徳山市体育館(テレビマッチ)において、ついに運命の最終決戦が訪れます。猪木はWWF認定世界マーシャルアーツ王者として、ブッチャーはWWC認定カリビアン・ヘビー級王者として、互いのプライドを懸けて激突。ブッチャーの猛攻を耐え抜いた猪木は、一瞬の隙を突いて完璧な体固めで3カウントを奪い、劇的なピンフォール勝ちを収めました。

 この試合が、昭和のプロレス史に燦然と輝く両雄の「最後のシングルマッチ」となりました。因縁のライバルである猪木から完璧なフォールを奪われたブッチャーは、このシリーズを最後に新日本プロレスを離脱。盟友たちの待つ全日本プロレスのマットへと再び帰還していくことになります。猪木とブッチャーが織りなした血と汗の抗争劇は、今なおファンの胸に深く刻まれている、昭和プロレスの偉大なる遺産なのです。

[昭和46(1971)年]

第13回ワールド大リーグ戦(日本プロレス)

 昭和46(1971)年4月5日(月曜日)、静岡県浜松市/厚生年金浜松市体育館
□ワールドリーグ戦/ノンタイトル(30分1本勝負)
  アントニオ猪木(14分50秒、反則勝ち)アブドーラ・ザ・ブッチャー
   ※A猪木はNWA認定ユナイテッドナショナルヘビー級王者。

 昭和46(1971)年5月14日(金曜日)、香川県高松市/高松国際スポーツパレス
□ワールドリーグ戦/ノンタイトル(30分1本勝負)
  アントニオ猪木(7分23秒、リングアウト)アブドーラ・ザ・ブッチャー
   ※A猪木はNWA認定ユナイテッドナショナルヘビー級王者。

[昭和57(1982)年]

新春黄金シリーズ(新日本プロレス)

 昭和57(1982)年1月28日(木曜日)、東京都渋谷区/東京都体育館
□シングルマッチ/ノンタイトル(時間無制限1本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
  アントニオ猪木(4分52秒、反則勝ち)アブドーラ・ザ・ブッチャー
   ※A猪木はWWF認定世界マーシャルアーツヘビー級王者。

[昭和60(1985)年]

新春黄金シリーズ(新日本プロレス)

 昭和60(1985)年1月25日(金曜日)、山口県徳山市/徳山市体育館
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分1本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
  アントニオ猪木(9分49秒、体固め)アブドーラ・ザ・ブッチャー
   ※A猪木はWWF認定世界マーシャルアーツヘビー級王者で、A・ザ・ブッチャーはWWC認定カリビアンヘビー級王者。

 アントニオ猪木とアブドーラ・ザ・ブッチャー。この2人の偉大なレスラーが繰り広げたシングルマッチの歴史は、激動の昭和プロレス史そのものを凝縮したかのような、濃密で劇的なものでした。

 昭和46(1971)年の初対決から、昭和60(1985)年の最終決戦にいたるまで、2人がシングルで肌を合わせたのは、日本プロレス時代に2回、新日本プロレス時代に2回の、わずか「4回」にすぎません。これほどの大物同士でありながら、一騎打ちの回数が驚くほど少なかったのには、当時のプロレス界ならではの「大人の事情」が深く関係しています。

 当時は、ジャイアント馬場が率いる「全日本プロレス」と、アントニオ猪木が率いる「新日本プロレス」という2つの大きな団体が、どちらが観衆を多く集められるか、激しいシェア争いを繰り広げていました。その戦いの中で最も激しかったのが、人気のある外国人レスラーの奪い合いです。

 ブッチャー選手はもともと、全日本プロレスの看板スターでした。しかし、新日本プロレスが大金を投じてブッチャー選手を裏で口説き落とし、強引に引き抜いてしまったのです。こうしたスター選手の奪い合いは、団体同士の間に強いライバル心と深い溝を生み出し、時には「お互いにレスラーを引き抜くのはやめよう」というルールを作っては破るような、ドロドロとした舞台裏の駆け引きへと発展していきました。

 このように団体同士が激しく敵対していたため、ブッチャー選手が全日本にいる間は、新日本のエースである猪木選手と闘うことは絶対に不可能な状況でした。さらに、ブッチャー選手が新日本に移籍してからも、テレビ局の意向や「めったに見られないからこそ価値がある」というビジネス上の戦略が働き、2人の試合は出し惜しみされたのです。ファンが一番見たい究極のカードは、こうした団体間のプライドやビジネスの壁に阻まれ、数えるほどしか実現しませんでした。

 だからこそ、限られた機会に実現した両雄の激突は、常に時代の特異点となり、ファンの記憶に鮮烈な焼き付けを残すことになりました。昭和54(1979)年のオールスター戦で見せた奇跡の邂逅、そして昭和56(1981)年の電撃移籍によってその夢が現実のものとなったときの興奮は、今もオールドファンの間で語り草となっています。

 徳山市体育館で行われた最後のシングルマッチにおいて、猪木選手がブッチャー選手から完璧な3カウントを奪った瞬間、1つの大いなる因縁に終止符が打たれました。それは同時に、ブッチャー選手が再び古巣である全日本プロレスのマットへと帰還する、新たな旅立ちのシグナルでもあったのです。

 ネットもSNSもなく、テレビの画面とプロレス雑誌の活字だけが熱狂の源だった時代。お茶の間を恐怖と興奮の渦に巻き込んだ彼らの闘いは、ただのスポーツの枠を超えた、極上の人間ドラマでした。本投稿を通じて、昭和という熱い時代を駆け抜けた2人の巨星の息遣いと、あの日のリングサイドの熱気が、少しでも皆様の元へと鮮やかによみがえることを願ってやみません。

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