アントニオ猪木 対 ボビー・ダンカン

 昭和55(1980)年12月29日、米国プロレス界の聖地であるニューヨークのマジソン・スクウェア・ガーデン(MSG)で行われた定期戦は、日本プロレス史に深く刻まれる歴史的な一夜となりました。全12試合というビッグマッチの中で、なんと5名もの日本人が世界のひのき舞台に立ったのです。

 その熱戦の幕開けとなった第1試合では、谷津嘉章がホセ・エストラーダを相手に、鮮やかなフロント・スープレックスで見事なフォール勝ちを収めました。続く第2試合では、WWF認定北米ヘビー級王者であった坂口征二がノンタイトルでサモアン2号(シカ)と激突。激しい攻防の末、サモアン1号(アファ)とアントニオ猪木が乱入する大波乱となり、両者反則の裁定が下されました。そして第3試合には、世界のジュニア戦線を牽引する藤波辰巳が登場。ドン・ダイヤモンドを伝家の宝刀である原爆固めに沈め、WWF認定ジュニアヘビー級王座の18度目という驚異的な防衛ロードを達成したのです。

 後半戦では、若き日のハルク・ホーガンが完勝したのち、第5試合でキラー・カーンがボブ・バックランドの保持するWWF認定ヘビー級王座に挑戦。惜しくも原爆固めで敗れ去ったものの、聖地の観客を大いに熱狂させました。

 そして、この贅沢な日本人たちの出陣のトリを飾ったのが、新日本プロレスの盟主・アントニオ猪木でした。対戦相手は、当時アメリカのトップ前線で暴れ回っていた「カウボーイ」こと、ボビー・ダンカン。今回は、この聖地MSGで行われた大一番を中心に、猪木とダンカンによる魂の激闘の軌跡を振り返ります。

[昭和44(1969)年]

第11回ワールド大リーグ戦(日本プロレス)

 昭和44(1969)年4月19日(土曜日)、香川県高松市/高松国際スポーツパレス
□シングルマッチ(20分1本勝負)
  アントニオ猪木(8分30秒、アバラ折り)ボビー・ダンカン

 昭和44(1969)年4月27日(日曜日)、宮崎県宮崎市/宮崎県体育館
□ワールドリーグ戦(30分1本勝負)
  アントニオ猪木(6分47秒、アバラ折り)ボビー・ダンカン

[昭和55(1980)年]

ワールド・レスリング・フェデレーション(WWF)

 昭和55(1980)年12月29日(月曜日)
 米国/ニューヨーク州ニューヨークシティ/マジソン・スクウェア・ガーデン
□NWF認定ヘビー級選手権試合(60分1本勝負)
  アントニオ猪木(12分47秒、体固め)ボビー・ダンカン
   ※第18代王者A猪木が7度目の防衛に成功する。猪木の保持するWWF認定世界マーシャルアーツヘビー級王座は賭けられていない。

[昭和56(1981)年]

新春黄金シリーズ(新日本プロレス)

 昭和56(1981)年2月12日(木曜日)、東京都文京区/後楽園ホール
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分1本勝負)
  アントニオ猪木(6分41秒、体固め)ボビー・ダンカン
   ※A猪木はNWF認定ヘビー級&WWF認定世界マーシャルアーツヘビー級王者。

第4回MSGシリーズ(新日本プロレス)

 昭和56(1981)年5月14日(木曜日)、栃木県宇都宮市/栃木県体育館
□MSGリーグ公式戦/ノンタイトル(30分1本勝負)
  アントニオ猪木(8分16秒、体固め)ボビー・ダンカン
   ※A猪木はWWF認定世界マーシャルアーツヘビー級王者。

 聖地MSGのメイン級で組まれたNWF認定ヘビー級選手権試合は、まさに壮絶な果し合いとなりました。アントニオ猪木に挑んだボビー・ダンカンは、かつてデビューからわずか2年半で初来日した頃の若手ではありませんでした。昭和54(1979)年末から翌年にかけ、最高峰の王者ボブ・バックランドに22回も挑戦するほどの超大物へと急成長を遂げていたのです。しかし猪木は、その猛追を執念の延髄斬りとギロチンドロップによるKOで退け、見事に7度目の防衛に成功しました。

 実は、両雄の因縁はそれよりも遥か昔、ダンカンの初来日時にまで遡ります。当時、猪木はダンカンと「第11回ワールド大リーグ戦」でシングルマッチで2回対戦し、いずれも「アバラ折り」でギブアップを奪う完全勝利を収めていました。タッグマッチを含め、日本で煮え湯を飲まされ続けたダンカンにとって、このMSGでの敗戦はリベンジの炎をさらに燃え上がらせる契機となったのです。

 翌月、ダンカンは新日本プロレスの「新春黄金シリーズ」へ電撃参戦を果たします。最終戦となった2月12日の後楽園ホールで、ノンタイトルながら猪木との一騎打ちに臨んだものの、惜敗。さらに同年5月の「第4回MSGシリーズ」でも宇都宮大会の公式戦で猪木に挑みましたが、またしてもその牙城を崩すことはできませんでした。その後も昭和58(1983)年のタッグリーグ戦や翌年のシリーズで計8回にわたり猪木と拳を交えたものの、すべてタッグマッチでの接触に留まり、ついにシングルマッチでの雪辱は果たせぬまま日本のマットを去ることとなりました。

 MSGという世界最高峰の舞台でメインを張り、日本でも執拗に猪木の首を狙い続けたボビー・ダンカン。彼が残した執念の足跡は、アントニオ猪木というレスラーの圧倒的な強さを証明すると同時に、昭和プロレスが持っていた底知れぬロマンとドラマ性を、今も私たちに伝えてくれています。

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