約2年間に及ぶアメリカ・カナダ遠征から帰国した芳の里に、若き日のアントニオ猪木が挑戦しました。後に日本プロレスの社長へと就任する元日本ライトヘビー級王者の芳の里と、猪木によるシングルマッチは、後にも先にも昭和38(1963)年9月から翌年1月までのわずか4か月弱の期間しか行われておらず、その対戦回数は貴重な全5回にとどまります。
[昭和38(1963)年]
=オリンピック協賛、秋季ワールド戦=
昭和38(1963)年9月24日(火曜日、祝日)、秋田県湯沢市/前森公園
□シングルマッチ(45分3本勝負)
芳の里(2-0)アントニオ猪木
①芳の里(5分55秒、エビ固め)猪木
②芳の里(9分15秒、体固め)猪木
両者の初対決は、セミファイナルという大舞台で実現しました。帰国第5戦を迎えた芳の里は、執拗なヘッドロックで猪木をロープ際へと追い詰めると、容赦ないパンチとキックの猛打を浴びます。さらに、チョーク気味の喉絞め(ソロートクロー)で猪木を圧倒。それはまさに、アメリカ遠征で暴れ回った悪役レスラー「デビル・サト」の生き写しでした。
猪木も劣勢を打開すべく場外乱闘へと持ち込みますが、芳の里の老獪なインサイドワークを前になす術がありません。リングに戻ると、豪快なネックブリーカードロップでマットに叩きつけられ、最後は強烈な地獄突きから3カウントを奪われました。
完全に主導権を握った芳の里の勢いは、2本目に入っても衰えません。開始早々に猪木をダウンさせると、反則すれすれの非情なキックを連打。たまらず猪木は場外へ転落します。芳の里もすぐさま追いかけ、両者は観客席をも巻き込む大乱闘を展開。
猪木も闘志を剥き出しにして猛反撃を試みましたが、芳の里の壁は厚かったのです。リングに押し戻された猪木はコーナーポストへと叩きつけられ、最後は強烈なニードロップの前に万事休す。芳の里が完勝を収める結果となりました。
昭和38(1963)年10月27日(日曜日)、宮崎県宮崎市/宮崎市立西池小学校横広場
□シングルマッチ(30分1本勝負)
芳の里(15分10秒、エビ固め)アントニオ猪木
昭和38(1963)年11月2日(土曜日)、山口県岩国市/岩国市体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
アントニオ猪木(13分21秒、反則勝ち)芳の里
=プロレス・デストロイヤー・シリーズ=
昭和38(1963)年12月6日(金曜日)、愛知県名古屋市/名古屋市金山体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
芳の里(5分48秒、首固め)アントニオ猪木
[昭和39(1964)年]
=プロレス国際戦・新春シリーズ=
昭和39(1964)年1月10日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(30分1本勝負)
芳の里(12分46秒、エビ固め)アントニオ猪木
1964年の幕開けを飾る「新春シリーズ」の開幕戦、そのセミファイナルという大舞台で両者は再び激突しました。
試合は序盤から一進一退の攻防が繰り広げられます。芳の里が強烈な押さえ込みにかかると、猪木は驚異的なブリッジで見事にこれを回避。続いて猪木が股裂きを仕掛けて反撃に出ると、芳の里はまさかの噛みつき攻撃で強引に脱出します。
そこから両者は激しいパンチの応酬へと突入。試合が熱を帯びる中、キャリアに勝る老獪な芳の里は、ロープを巧みに利用して猪木の脚を集中的に攻め立てます。さらに、レフェリーの死角を突いた老練な反則攻撃で、ジワジワと猪木を追い詰めていきました。
しかし、猪木も黙ってはいません。気迫あふれるショルダーブロックで芳の里を豪快に吹き飛ばすと、間髪入れずに得意のドロップキックを1発、2発と叩き込み、一気に勝機をたぐり寄せます。
満を持して放った決定打となるはずの3発目。しかし、芳の里はこれを間一髪でかわしました。着地の隙を逃さなかった芳の里は、そのまま電光石火の技ありで猪木を押さえ込み、3カウントを奪取。ベテランの意地と執念が勝った一戦となりました。
そして、この劇的な結末を迎えた一戦こそが、芳の里とアントニオ猪木による最後のシングルマッチとなったのです。