昭和27(1952)年2月3日、日本のプロレス史を大きく揺るがす旅が始まりました。力道山は羽田空港からPAN AMERICAN(パンアメリカン)機へと乗り込み、未知の土地であるハワイへと向かったのです。
ハワイに到着した力道山は、4か月弱にわたり猛特訓と試合を重ねました。その後、舞台をサンフランシスコ地区へと移し、8か月弱に及ぶ過酷なサーキット(巡業)に身を投じます。現地の大型レスラーたちと互角に渡り合い、プロレスの技術と興行のノウハウを貪欲に吸収していきました。昭和28(1953)年2月上旬に再びハワイ地区へと戻って試合を行った後、同年3月6日、たくましく成長した姿で羽田空港へと凱旋帰国を果たします。アメリカでの武者修行は、計13か月に及ぶ壮大なものでした。
帰国から4か月が経った7月1日、東京都中央区人形町に、日本プロレスの聖地となる「力道山道場(力道山レスリング練習所)」が設立されました。それと同時に、プロレスの本格的な普及を目指す組織として「財団法人日本プロ・レスリング協会」が産声を上げたのです。
同月30日の午後4時からは、完成したばかりの力道山道場において、協会の結成祝賀会ならびに道場開きが盛大に執り行われました。この道場は、力道山がアメリカ遠征で命を削って手に入れたファイトマネーを投げ打ち、私財を投じて建てられたものです。驚くべきことに、力道山は「当分の間は一般人に無料で開放し、自由に練習してもらう」という破格の方針を打ち出しました。ここから未来のスター選手を育て、日本にプロレスを根付かせたいという、彼の並々ならぬ決意と大いなるロマンが感じられます。
式典では、そうそうたる来賓から祝辞が述べられた後、ファンや関係者が固唾をのんで見守る中で模範試合が行われました。対戦カードは、力道山と柔道6段の猛者である遠藤幸吉です。遠藤もまた、力道山と同じようにアメリカへ渡り、レスラーとしての厳しい修行を積んで帰国したばかりの本格派でした。2人が繰り広げるダイナミックな技の応酬は、集まった人々に「これこそが新しい時代の格闘技だ」と強烈なインプレッションを与えました。

この時発足した日本プロ・レスリング協会は、単なる一過性の興行組織ではなく、当時の日本における政財界やスポーツ界の重鎮たちが文字通りバックアップする巨大なプロジェクトでした。新聞各紙に掲載された主な役員陣の顔ぶれは、以下のように驚くほど豪華なものでした。
- 会長:酒井忠正 氏(横綱審議委員会の初代委員長を務めた相撲界の重鎮)
- 理事長:新田新作 氏(明治座の社長であり、興行界の大物)
- 常務理事:林弘高 氏、永田貞雄 氏
- 顧問:大麻唯男 氏、太田耕造 氏(政界の有力者たち)
- 相談役:出羽海秀光 氏(元横綱常ノ花であり、相撲界の絶対的権威)、永田雅一 氏(大映の社長であり、プロ野球・大毎オリオンズのオーナー)
このように、相撲界からの強力な後援と、興行・メディア・政界のトップたちが手を取り合う形で、日本のプロレスは最高のスタートを切ったのです。人形町の小さな道場から始まったこの熱気は、やがて日本全国を熱狂の渦に巻き込んでいくことになります。
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