幻の黒人レスラー、キング・ジャックの正体を追う
昭和30年代の日本プロレス界は、力道山を中心に空前の大ブームを迎えていました。その熱狂の裏で、わずか1年足らずの間に突如として現れ、歴史の彼方へと消え去っていった謎のレスラーがいます。その名は「キング・ジャック」。
彼が日本のリングに登場したのは、昭和30(1955)年11月から昭和31(1956)年9月にかけてのことでした。最初にその名が刻まれたのは、昭和30年11月に開催された「マナスル登山基金募集プロ・レスリング、アジア選手権」の第6戦、東京大会(蔵前国技館)です。後に国際プロレスの名レフェリーとして日本のマット界を支えることになる阿部修と対戦し、敗退したのが日本での初舞台となりました。

大阪府立中央図書館所蔵)
現時点で判明しているK・ジャックの日本国内における試合結果は、驚くほど黒星が先行しています。彼が勝利を挙げたのは、最後の試合となった田中米太郎戦のわずか1勝のみ。ほとんどが負け試合という、お世辞にも華々しいとは言えない戦績を残したこの選手は、一体どのような人物だったのでしょうか。その足跡を詳しく調査しました。
日本国内における戦いの日々
まずは彼が日本で繰り広げた、激闘の全記録を振り返ってみましょう。
マナスル登山基金募集プロ・レスリング、アジア選手権(昭和30年11月)
昭和30年11月14日(月曜日)、東京都台東区/蔵前国技館
□シングルマッチ(15分1本勝負)
阿部修(13分12秒、体固め)キング・ジャック
昭和30年11月15日(火曜日)、東京都台東区/蔵前国技館
□シングルマッチ(15分1本勝負)
芳の里(9分53秒、体固め)キング・ジャック
昭和30年11月19日(土曜日)、大阪府大阪市/大阪府立体育会館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
芳の里(15分58秒、体固め)キング・ジャック
昭和30年11月20日(日曜日)、大阪府大阪市/大阪府立体育会館
□シングルマッチ(15分1本勝負)
阿部修(10分36秒、フォール勝ち)キング・ジャック
遺家族慰問試合(昭和31年3月)
昭和31年3月31日(土曜日)、東京都墨田区/長瀬ゴム工業グラウンド
□タッグマッチ(45分3本勝負)、レフェリー:九州山
芳の里&ユセフ・トルコ(1-0)キング・ジャック&阿部修
①トルコ(25分14秒、フォール勝ち)ジャック
②芳の里組(時間切れ)ジャック組
プロレスリング大会(昭和31年4月)
昭和31年4月2日(月曜日)、場所不明
□タッグマッチ(30分1本勝負)、レフェリー:九州山
芳の里&ユセフ・トルコ(1-0)キング・ジャック&阿部修
◎芳の里(12分26秒、エビ固め)阿部
マナスル登山基金募集、プロレスリング国際大試合(昭和31年4月~6月)
昭和31年4月24日(火曜日)、東京都台東区/蔵前国技館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
芳の里(16分21秒、体固め)キング・ジャック
昭和31年4月25日(水曜日)、東京都台東区/蔵前国技館
□シングルマッチ(15分1本勝負)
キング・ジャック(時間切れ)田中米太郎
昭和31年4月26日(木曜日)、東京都台東区/蔵前国技館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
東富士(2分1秒、体固め)キング・ジャック
昭和31年5月24日(木曜日)、神奈川県川崎市/川崎市体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
宮島富雄(18分3秒、エビ固め)キング・ジャック
昭和31年6月6日(水曜日)、神奈川県横浜市/神奈川体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
阿部修(13分53秒、エビ固め)キング・ジャック
昭和31年6月7日(木曜日)、東京都台東区/蔵前国技館
□シングルマッチ(15分1本勝負)
藤田山(14分59秒、体固め)キング・ジャック(15分59秒説、16分59秒説あり)
プロレス世界選手権挑戦者決定戦(昭和31年7月~9月)
昭和31年9月3日(月曜日)、神奈川県横須賀市/横須賀市営追浜球場
□シングルマッチ(20分1本勝負)
キング・ジャック(11分57秒、逆首固め)田中米太郎
このように、そうそうたる日本人レスラーを相手に連戦連敗を喫(きっ)しながらも、昭和31年9月の追浜球場大会において、ついに田中米太郎を相手に逆首固めで意地の一勝をもぎ取っています。この試合を最後に、彼は日本のプロレスファンたちの前から姿を消しました。
明らかになった素性と、日本で培われたプロレスセンス
ミステリアスなベールに包まれたK・ジャックですが、いくつかの断片的な資料からその素性が浮き彫りになってきました。
彼はワシントン生まれで、昭和32(1957)年の時点で25歳だったという記録が残されています。ここから逆算すると、生まれは昭和6(1931)年から昭和7(1932)年にかけてであり、日本での初ファイト時はわずか23歳から24歳という若さであったことが分かります。なお、生まれ故郷のワシントンが「ワシントン州」を指すのか、それとも首都である「ワシントン,D.C.」を指すのかについては、今なおはっきりとしていません。
正確な身長は不明ですが、体重に関しては当時の資料によって200、205、210、215ポンド(約91、93、95、98キログラム)と様々な記載が見られます。おそらく転戦を重ねる中で体格が変化したか、あるいは媒体による大まかな推測だったのでしょう。
驚くべきは彼の経歴です。アメリカ海兵隊に所属していた彼は、なんと海兵隊のアマチュアレスリング王者だったという輝かしい実績を持っていました。しかも、その王座を獲得するにあたって、力道山やプロレス界の伝説であるシャープ兄弟から直接指導を受け、鍛え上げられたというエピソードまで伝わっています。
ここで注目すべきは、彼が日本で活躍していた昭和30年前後という時期です。この時代、シャープ兄弟は日本プロレス界を盛り上げるために2度来日しており、力道山らと日本中を熱狂させていました。つまりK・ジャックは、アメリカで彼らと出会ったのではなく、海兵隊員として日本に駐留していた際、来日中のシャープ兄弟や力道山が揃う日本プロレスの道場などで直接鍛えられた可能性が極めて高いと言えます。日本のマット界の頂点に立つ巨頭たちから直々にプロの技術を叩き込まれたからこそ、彼は海兵隊のアマレス王者に登り詰めることができたのかもしれません。
さらに、彼は当時としては珍しい黒人レスラーであり、プロのリングには常に「裸足」で上がって試合をしていました。その野生味溢れるスタイルは、当時の日本の観客たちに強烈なインパクトを残したに違いありません。

アメリカ帰国後の足跡と、海を渡った「キング・ジャック」の謎
日本のマットを離れた後、彼は再びアメリカへと戻り、オハイオ州を拠点とするプロモーターのリップ・ホーク氏のもとでリングに上がって試合を続けていたとされています。ちなみに、このプロモーターであるリップ・ホーク氏という人物は、後にスウェード・ハンソンとの名タッグで一世を風靡する同名の有名レスラーとは、時代背景などから考えておそらく別人であろうと推測されます。
米国内におけるK・ジャックの詳しい試合結果やその後の動向は、残念ながらほとんどが闇に包まれています。しかし、たった1つだけ、当時のミッドアトランティック地区の興行記録にその名前がはっきりと残されているのを発見しました。
ただし、このアメリカの記録にある「キング・ジャック」が、かつて日本で裸足で戦った彼と同一人物であるかどうかは決定的な証拠がありません。名レスラーであるルーター・リンゼイ(ルター・レンジ)とともに、期待の黒人タッグチームとして名を連ねていた形跡がありますが、その歴史的な一夜の記録は以下の通りです。
昭和37(1962)年4月19日(木曜日)
米国/ノースカロライナ州グリーンズボロ/グリーンズボロ・コロシアム
観衆:3171人
1)タッグマッチ
ルーター・リンゼイ&キング・ジャック(勝ち)アンジェロ・サボルディ&ジャック・テリー
2)女子シングルマッチ
スレーブ・ガール・ムーラ(勝ち)キャロル・リトル
※S・G・ムーラはファビュラス・ムーラのこと。
3)シングルマッチ
ジョニー・ウィーバー(勝ち)エディ・オーガー
4)タッグマッチ
ザ・フォン・ブラウナーズ(クルト&カール)(勝ち)ヘイスタック・カルホーン&ガイ・ラローズ
※G・ラローズはオビラ・アセリン。
5)タッグマッチ(3本勝負)
アントニーノ・ロッカ(2-1)ハンス・シュミット
③ロッカ(反則勝ち)シュミット
あの高名なファビュラス・ムーラやアントニーノ・ロッカ、ハンス・シュミットといった伝説の名選手たちが集う豪華な興行の中で、ルーター・リンゼイと組んで見事に勝利を収めている「キング・ジャック」。もし彼が日本で敗戦を重ねながらも力道山たちに鍛えられていたあの若者だったとしたら、帰国後に本国アメリカで見事な開花を遂げていたということになります。
昭和の日本プロレス黎明期に現れ、日本でその才能を磨いた裸足の黒人アマレス王者。彼が日本のファンに遺した記憶と、アメリカのマットに刻んだ足跡は、今もなお昭和プロレス史のロマンあふれる1ページとして輝き続けています。
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