アントニオ猪木 対 ブルーザー・ブロディ

 昭和プロレスの歴史において、これほどファンの妄想を掻き立て、同時にプロレス界の権力構造を揺るがした大物同士の遭遇は他にありません。「燃える闘魂」アントニオ猪木と、「インテリジェント・モンスター」ブルーザー・ブロディ。全日本プロレスの看板外国人としてジャイアント馬場を苦しめていたブロディが、まさか新日本プロレスのリングに上がり、猪木と対峙する日が来るとは、当時の誰もが想像していませんでした。

 この世紀の引き抜き劇の背景には、新日本プロレスが直面していた最大の危機がありました。昭和59(1984)年9月、長州力率いる維新軍団が一斉に退団してジャパンプロレスを結成し、ライバル団体である全日本プロレスへと電撃移籍してしまったのです。さらに、関節技の鬼・木戸修も前年に旗揚げされた第1次UWFへと移籍しました。相次ぐ主力選手の離脱により、新日本プロレスは観客動員数の減少とテレビ視聴率の低下という、かつてない苦境に立たされていました。

 この窮地を脱するため、新日本プロレスが放ったウルトラCこそが、全日本プロレスの絶対的エース外国人だったブロディの引き抜きでした。これまでまったく接点のなかった2人の天才が、ついに交わることになったのです。昭和60(1985)年4月18日、両国国技館での初対戦から始まった2人の闘いは、わずか半年の間に東京、大阪、ホノルル、札幌を舞台に6回ものシングルマッチが組まれるという、異例の超ハイペースで展開されていきました。

[昭和60(1985)年]

’85ビッグ・ファイト・シリーズ第2弾(新日本プロレス)

 昭和60(1985)年4月18日(木曜日)、東京都墨田区/両国国技館
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分1本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
  アントニオ猪木(26分20秒、両者リングアウト)ブルーザー・ブロディ
   ※A猪木はWWF認定世界マーシャルアーツヘビー級王者。

バーニング・スピリット・イン・サマー(新日本プロレス)

 昭和60(1985)年7月28日(日曜日)、大阪府大阪市/大阪城国際文化スポーツホール
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分1本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
  ブルーザー・ブロディ(16分38秒、反則勝ち)アントニオ猪木
   ※A猪木はWWF認定世界マーシャルアーツヘビー級王者。

 昭和60(1985)年8月1日(木曜日)、東京都墨田区/両国国技館
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分1本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
  ブルーザー・ブロディ(21分24秒、反則勝ち)アントニオ猪木
   ※A猪木はWWF認定世界マーシャルアーツヘビー級王者。

ポリネシアン・プロモーションズ

 昭和60(1985)年8月3日(土曜日)
 米国/ハワイ州ホノルル/アロハ・スタジアム
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分1本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
  アントニオ猪木(8分40秒、両者リングアウト)ブルーザー・ブロディ
   ※A猪木はWWF認定世界マーシャルアーツヘビー級王者。

バーニング・スピリット・イン・オータム(新日本プロレス)

 昭和60(1985)年10月4日(金曜日)、北海道札幌市/北海道立札幌中島体育センター別館
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分1本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
  アントニオ猪木(21分41秒、両者リングアウト)ブルーザー・ブロディ
   ※A猪木はWWF認定世界マーシャルアーツヘビー級王者。

 昭和60(1985)年10月31日(木曜日)、東京都渋谷区/東京都体育館
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分1本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
  アントニオ猪木(27分4秒、反則勝ち)ブルーザー・ブロディ
   ※A猪木はWWF認定世界マーシャルアーツヘビー級王者。

[昭和61(1986)年]

チャレンジ・スピリット’86(新日本プロレス)

 昭和61(1986)年9月16日(火曜日)、大阪府大阪市/大阪城国際文化スポーツホール
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分1本勝負)、レフェリー:山本小鉄
  アントニオ猪木(時間切れ)ブルーザー・ブロディ
    レフェリー:ミスター高橋、サブレフェリー:山本小鉄
   ※A猪木は新日本プロレス認定世界マーシャルアーツヘビー級王者。

 アントニオ猪木とブルーザー・ブロディのシングルマッチは、通算7回行われました。その戦績は猪木の1勝2敗4分けです。特筆すべきは、決着がついた試合はすべて反則裁定であり、引き分けも両者リングアウトや時間切れだったことです。お互いのプライドと、レスラーとしての絶対的な価値を守るため、ピンフォールやギブアップでの決着を頑なに拒んだ泥沼の心理戦。それこそが、現代のプロレスにはない独特の緊張感を生み出していました。

 しかし、ブロディという男は、リング上だけでなくフロント(会社側)にとってもまさに「怪物」でした。その気まぐれで神経質な性格は、昭和60(1985)年末の「’85IWGPタッグ・リーグ戦」で最悪の形で爆発します。ジミー・スヌーカとのタッグで圧倒的な強さを見せ、最高得点で優勝決定戦への進出を決めていながら、ギャラや待遇を巡るトラブルから、12月12日の宮城県スポーツセンターでの優勝決定戦を突如ボイコットしたのです。仙台のファンが激怒し、会場が騒然とする中で行われた藤波辰巳、木村健吾組対アントニオ猪木、坂口征二組の「身内同士の優勝決定戦」は、新日本プロレスの歴史に残る悲劇的な幕切れとなりました。

 その後、昭和61(1986)年9月の大阪城ホールで60分フルタイムドローという名勝負を残したものの、同年の年末リーグ戦の参加を拒否したことで、ブロディと新日本プロレスの関係は完全に破綻しました。彼は再び古巣である全日本プロレスへと戻り、ジャイアント馬場やジャンボ鶴田、さらには天龍源一郎やタイガー・マスク(三沢光晴)らと新たな名勝負を繰り広げることになります。

 昭和63(1988)年の「’88チャンピオン・カーニバル」でも健在ぶりを示していたブロディでしたが、運命の日は突然訪れました。同年7月17日、遠征先のプエルトリコの控室で、現地のプロモーター兼レスラーとの口論の末にナイフで刺され、42年という短すぎる生涯を閉じたのです。

 もし、ブロディが新日本プロレスとの関係をこじらせず、猪木との闘いを継続させていたら、プロレス界の未来はどうなっていたでしょうか。お互いに相手の出方を読み合い、一瞬の隙も許さなかった猪木対ブロディの7連戦は、昭和のプロレスが持っていた「底知れぬスリルとロマン」を今に伝える、不滅の記録として輝き続けています。

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