2人の初対戦は、昭和46年10月25日の日本プロレスのマットでした。藤波のデビュー第5戦(バトルロイヤルは除く)であり、木戸21歳、藤波17歳の時です。この時はデビューして2〜3年になる木戸が勝利を収め、この年にはあと2試合が行われて木戸の3連勝となりました。
しかし、同年の暮れにアントニオ猪木が日本プロレスを除名されると、当時猪木の付き人であった藤波は、木戸とともに日本プロレスを退団します。翌年3月に新日本プロレスが旗揚げされると、2人の対戦もたびたび組まれるようになりましたが、木戸の壁は厚く、昭和50年3月10日の第2回ワールドリーグ戦出場資格争奪戦まで、新日本のマットで木戸が藤波に対して15連勝を記録しています。
その後、第2回ワールドリーグ戦に出場した木戸と、前年の第1回カール・ゴッチ杯で優勝した藤波は、6月1日の君津大会を最後に西ドイツ遠征へと出発。同年10月25日まで現地に滞在しました。この西ドイツ遠征中に藤波は木戸と9回対戦し、ついに念願の初勝利を挙げて最終的に5勝3敗で勝ち越すという、大きな転換期を迎えます。
[昭和46(1971)年]
第7回サマー・ビッグ・シリーズ(日本プロレス)
昭和46(1971)年7月24日(土曜日)、群馬県前橋市/群馬県スポーツセンター
□シングルマッチ(15分1本勝負)
木戸修(8分55秒、体固め)藤波辰巳
サマー・ミステリー・シリーズ(日本プロレス)
昭和46(1971)年8月25日(水曜日)、山形県新庄市/新庄市立新庄小学校跡広場
□シングルマッチ(15分1本勝負)
木戸修(5分41秒、体固め)藤波辰巳
第2回NWAタッグ・リーグ戦(日本プロレス)
昭和46(1971)年10月25日(月曜日)、京都府綾部市/綾部市市民センター
□シングルマッチ(?分1本勝負)
木戸修(分秒、)藤波辰巳
[昭和47(1972)年]
旗揚げオープニング・シリーズ(新日本プロレス)
昭和47(1972)年3月10日(金曜日)、群馬県高崎市/高崎市中央体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
木戸修(13分47秒、体固め)藤波辰巳
ニュー・サマー・シリーズ(新日本プロレス)
昭和47(1972)年7月28日(金曜日)、北海道名寄市/旧名寄市営球場
□シングルマッチ(20分1本勝負)
木戸修(9分42秒、片エビ固め)藤波辰巳
昭和47(1972)年8月17日(木曜日)、大阪府枚方市/イズミヤ枚方ショッピングセンター中央駐車場
□シングルマッチ(20分1本勝負)
木戸修(10分10秒、片エビ固め)藤波辰巳
ニュー・ゴールデン・シリーズ(新日本プロレス)
昭和47(1972)年10月20日(金曜日)、奈良県奈良市/奈良市中央体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
木戸修(11分28秒、片エビ固め)藤波辰巳
[昭和48(1973)年]
新春バッファロー・シリーズ(新日本プロレス)
昭和48(1973)年2月3日(土曜日)、高知県安芸市/安芸市体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
木戸修(11分44秒、片エビ固め)藤波辰巳
昭和48(1973)年2月15日(木曜日)、群馬県桐生市/桐生市民体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
木戸修(10分25秒、逆エビ固め)藤波辰巳
ビッグ・ファイト・シリーズ(新日本プロレス)
昭和48(1973)年4月16日(月曜日)、愛知県名古屋市/愛知県体育館
□シングルマッチ(15分1本勝負)
木戸修(10分30秒、片エビ固め)藤波辰巳
ワールド・タイトル・チャレンジ・シリーズ(新日本プロレス)
昭和48(1973)年12月13日(木曜日)、静岡県静岡市/静岡駿府会館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
木戸修(7分10秒、体固め)藤波辰巳
[昭和49(1974)年]
新春黄金シリーズ(新日本プロレス)
昭和49(1974)年1月8日(火曜日)、高知県高知市/高知県立県民体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
木戸修(10分23秒、体固め)藤波辰巳
昭和49(1974)年1月18日(金曜日)、東京都文京区/後楽園ホール
□シングルマッチ(20分1本勝負)
木戸修(10分2秒、片エビ固め)藤波辰巳
闘魂シリーズ第2弾(新日本プロレス)
昭和49(1974)年10月26日(土曜日)、栃木県佐野市/佐野市民会館大ホール
□シングルマッチ(20分1本勝負)
木戸修(8分23秒、片エビ固め)藤波辰巳
昭和49(1974)年12月12日(木曜日)、東京都台東区/蔵前国技館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
木戸修(9分8秒、エビ固め)藤波辰巳
[昭和50(1975)年]
新春黄金シリーズ(新日本プロレス)
昭和50(1975)年1月10日(金曜日)、長野県諏訪市/諏訪湖スポーツセンター体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
木戸修(8分43秒、逆エビ固め)藤波辰巳
昭和50(1975)年1月19日(日曜日)、和歌山県白浜町/白浜会館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
木戸修(12分13秒、片エビ固め)藤波辰巳
ビッグ・ファイト・シリーズ(新日本プロレス)
昭和50(1975)年3月10日(月曜日)、鹿児島県鹿児島市/鹿児島県総合体育センター体育館
□第2回ワールドリーグ戦出場資格争奪戦(20分1本勝負)
木戸修(10分44秒、体固め)藤波辰巳
カイザー・プロモーション
昭和50(1975)年6月13日(金曜日)
ドイツ連邦共和国/バイエルン州ニュルンベルク/メッセハレ
□シングルマッチ
木戸修(勝ち)藤波辰巳
昭和50(1975)年7月14日(月曜日)
ドイツ連邦共和国/ノルトライン=ヴェストファーレン州ケルン/会場名不明
□シングルマッチ
木戸修(勝ち)藤波辰巳
昭和50(1975)年8月6日(水曜日)
ドイツ連邦共和国/ノルトライン=ヴェストファーレン州クレーフェルト/ラインラントハレ
□シングルマッチ
藤波辰巳(勝ち)木戸修
昭和50(1975)年8月12日(火曜日)
ドイツ連邦共和国/ノルトライン=ヴェストファーレン州クレーフェルト/ラインラントハレ
□シングルマッチ
木戸修(勝ち)藤波辰巳
昭和50(1975)年8月19日(火曜日)
ドイツ連邦共和国/ノルトライン=ヴェストファーレン州ミュンスター/ハレ・ミュンスターラント
□シングルマッチ
藤波辰巳(勝ち)木戸修
昭和50(1975)年9月5日(金曜日)
ドイツ連邦共和国/ヘッセン州ヴィースバーデン/会場名不明
□シングルマッチ
藤波辰巳(勝ち)木戸修
昭和50(1975)年9月30日(火曜日)
ドイツ連邦共和国/バーデン=ヴュルテンベルク州カールスルーエ/オストシュタットハレ
□シングルマッチ
藤波辰巳(勝ち)木戸修
昭和50(1975)年10月20日(月曜日)
ドイツ連邦共和国/バイエルン州ミュンヘン/キルクス=クローネ=バオ
□シングルマッチ
藤波辰巳(勝ち)木戸修
昭和50(1975)年10月25日(土曜日)
ドイツ連邦共和国/バイエルン州ミュンヘン/キルクス=クローネ=バオ
□シングルマッチ
木戸修(勝ち)藤波辰巳
西ドイツ遠征後、木戸はロサンゼルスを経て帰国し、藤波はロサンゼルスからミッドアトランティック地区、さらにはメキシコへと転戦しました。そして昭和53年、藤波はWWF認定ジュニアヘビー級王者として凱旋帰国を果たし、日本中に空前の大ブームを巻き起こすことになります。
木戸と、WWF王者となった藤波による待望の初対戦は、昭和53年暮れに開催されたプレ日本選手権の予選リーグで実現しました。ここでは、王者として勢いに乗る藤波が勝利を収めています。その1年半後には、MSGシリーズの敗者復活トーナメントにおいて両者は再び激突しています。
その後しばらくの間は両者のシングル対戦はありませんでしたが、平成3年には2度の対戦が実現。さらに平成5年にはG1クライマックスの舞台で熱戦を繰り広げました。そして、2人にとって最後となったシングルマッチは、平成6年11月23日、「藤波辰爾日本国内3000試合目記念試合」という記念すべき大舞台で行われました。
若き日の対戦とは対照的に、藤波がWWF王者となってからの対戦は、すべて藤波が勝利を収める結果となっています。
[昭和53(1978)年]
プレ日本選手権(新日本プロレス)
昭和53(1978)年11月28日(火曜日)、茨城県岩瀬町/岩瀬町体育館
□プレ日本選手権予選リーグ戦/ノンタイトル(30分1本勝負)
藤波辰巳(12分52秒、回転エビ固め)木戸修
※藤波辰巳はWWWF認定ジュニアヘビー級王者。
[昭和55(1980)年]
第3回MSGシリーズ(新日本プロレス)
昭和55(1980)年5月12日(月曜日)、熊本県熊本市/熊本市体育館
□MSGシリーズ敗者復活トーナメント[Aブロック]3回戦/ノンタイトル(30分1本勝負)
藤波辰巳(11分23秒、回転エビ固め)木戸修
※藤波辰巳が決勝リーグ戦進出を決める。藤波はNWAインターナショナル認定世界&WWF認定ジュニアヘビー級王者。
[平成3(1991)年]
スーパー・フェブラリィ’91(新日本プロレス)
平成3(1991)年2月6日(水曜日)、北海道札幌市/北海道立札幌中島体育センター別館
□シングルマッチ(60分1本勝負)
藤波辰爾(9分31秒、寝技式アバラ折り)木戸修
EAST LIVE’91(新日本プロレス)
平成3(1991)年8月25日(日曜日)、神奈川県川崎市/遊園地よみうりランド・オープンシアターEAST
□シングルマッチ/ノンタイトル(45分1本勝負)
藤波辰爾(11分6秒、回転足折り固め)木戸修
※藤波辰爾はIWGPヘビー級王者。
[平成5(1993)年]
’93G1クライマックス(新日本プロレス)
平成5(1993)年8月5日(木曜日)、東京都墨田区/両国国技館
□G1クライマックストーナメント2回戦(30分1本勝負)
藤波辰爾(11分58秒、飛龍裸絞め)木戸修
※藤波辰爾が準決勝戦進出を決める。
[平成6(1994)年]
BATTLE FINAL’94(新日本プロレス)
平成6(1994)年11月23日(水曜日、祝日)、福島県郡山市/郡山セントラルホール
□シングルマッチ/藤波辰爾日本国内3000試合目記念試合(60分1本勝負)
藤波辰爾(8分8秒、飛龍裸絞め)木戸修
日本プロレス時代から平成の記念試合に至るまで、シングルマッチで数多くの名勝負を繰り広げてきた藤波辰巳(辰爾)と木戸修。
その対戦の軌跡を振り返ると、2人の関係性と成長の歴史が鮮やかに浮かび上がります。デビュー間もない若手時代は、先輩である木戸が圧倒的な実力を見せつけ、新日本プロレスの旗揚げ期を含めて藤波に対して15連勝という驚異的な壁として立ちはだかりました。しかし、昭和50年の西ドイツ遠征という転換期を経て、藤波が世界の頂点へと駆け上がると、立場は一変します。藤波がWWFジュニアヘビー級王者となってからの後半戦は、打って変わって藤波が全勝を収める結果となりました。
全33戦におよぶ通算成績では、前半の連勝を守り抜いた木戸が22勝11敗と勝ち越しています。しかし、この数字以上にプロレスファンを魅了したのは、互いのファイトスタイルが生み出す極上のクオリティでした。「飛龍」として華やかにプロレス界を牽引した藤波と、「キド・クラッチ」に代表されるいぶし銀の関節技で職人肌を貫いた木戸。対照的な2人がリング上で魅せた妥協なきレスリング攻防は、前座時代からメインイベント級の輝きを放ち、まさに昭和から平成へと受け継がれた新日本プロレスの「王道」そのものでした。
時代の波に揉まれながらも、常に極上の技術論争を展開し続けた2人の激闘譜は、今もなおプロレス史に燦然と輝く伝説のライバル関係として語り継がれています。