デビュー4年目を迎えていた若き日のアントニオ猪木。彼が、力道山亡きあとの日本プロレスを支えた巨頭・豊登とシングルで激突した歴史をご存知でしょうか。運命の対決が実現したのは、昭和38年(1963年)。そして驚くべきことに、二人の一騎打ちはこの年の「5試合」が最初で最後となりました。
シングル戦こそわずか5回で途切れたものの、のちに二人は「東京プロレス」、そして「新日本プロレス」の誕生において、プロレス界の歴史を大きく動かすビジネスパートナー、そして師弟のような関係として深い接点を持つことになります。猪木の原点とも言える、豊登との激闘の全記録を振り返ります。
[昭和38(1963)年]
=東京オリンピック協賛、第5回ワールド大リーグ戦=
昭和38(1963)年5月2日(木曜日)、秋田県秋田市/秋田市立体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
豊登(12分44秒、体固め)アントニオ猪木
=オリンピック協賛、プロレス国際戦・夏の陣=
昭和38(1963)年7月12日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(45分3本勝負)
豊登(2-0)アントニオ猪木
①豊登(12分0秒、逆片エビ固め)猪木
②豊登(0分28秒、レフェリー・ストップ)猪木(0分21秒説あり)
この試合の模様は、テレビでも生中継されました。試合開始早々、猪木はフライング・ヘッドシザースを鮮やかに決めると、さらにフライング・ヘッドロックを連発して豊登を果敢に攻め立てます。対する豊登も、ヘッドロックに捉えにきた猪木の腕を取り、リストロックからアームシザースへと切り返していきます。さらに、豊登がボディプレスを狙うと、猪木は美しいブリッジで軽々とかわしてみせました。
その後、リストロックの掛け合いから力比べの攻防へと移行しますが、やはり豊登の圧倒的なパワーに対抗するのは困難でした。豊登は強引に「逆片エビ固め」へと持ち込みます。猪木は約1分間も必死に耐え抜いたものの、無念のギブアップとなり1本目を先取されました。
続く2本目、1本目の攻防で膝を厳しく痛めてしまった猪木は、立ち上がることができません。そのため、レフェリーが危険と判断して試合をストップし、豊登が2本連取で勝利を収めました。
=プロレス国際試合リキ・パレス大会=
昭和38(1963)年11月22日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(30分1本勝負)
豊登(8分56秒、体固め)アントニオ猪木
=プロレス・デストロイヤー・シリーズ=
昭和38(1963)年12月1日(日曜日)
栃木県宇都宮市/宇都宮市体育館(宇都宮市スポーツセンター)
□シングルマッチ(30分1本勝負)
豊登(10分55秒、エビ固め)アントニオ猪木
昭和38(1963)年12月5日(木曜日)、愛知県名古屋市/名古屋市金山体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
豊登(8分35秒、逆エビ固め)アントニオ猪木