昭和のプロレス黄金期において、ファンを最も熱狂させたのは、世界の頂点に君臨する巨大な壁に若き日本のエースたちが挑む、あのヒリヒリするような緊張感でした。ジャイアント馬場、アントニオ猪木の「BI砲」が日本プロレス界の未来を背負って急成長を遂げていた時代、その前に立ちはだかった最大の巨頭のひとりが、「荒法師」の異名を持つジン・キニスキーです。
キニスキーは、強靭な肉体と容赦のないラフファイト、解き放たれる圧倒的なスタミナを武器に世界最高峰のNWA認定世界ヘビー級王座に君臨した、まさにプロレス界の絶対強者でした。日本プロレスにおけるキニスキーのライバルと言えば、インターナショナル選手権を巡って名勝負を繰り広げたジャイアント馬場の印象が強いかもしれません。しかし、若き日のアントニオ猪木もまた、この偉大なる「荒法師」の首を激しく狙い、国内外で一歩も引かない死闘を展開していたのです。
今回は、今もなおオールドファンの間で語り草となっている、昭和43(1968)年11月の室蘭大会における伝説のメインエベント、そしてそれ以前に米国テキサスで繰り広げられていた知られざる前哨戦の記録について振り返ってみましょう。
アントニオ猪木と、元NWA認定世界ヘビー級王者であるジン・キニスキーによるシングルマッチといえば、オールドファンの方々ならテレビで生中継された「あの熱戦」を鮮烈に思い出すに違いありません。それこそが、昭和43(1968)年11月29日、北海道室蘭市で行われたノンタイトルの一騎打ちです。しかもこの試合は、堂々のメインエベントとして組まれていました。
それまでも、猪木がシングルマッチでメインエベントに出場したことは3度ありました。昭和42(1967)年の「冬の陣ウインター・シリーズ」におけるビクター・リベラ戦(11月10日、後楽園ホール)とニック・コザック戦(11月24日、高松市体育館)、そして昭和43(1968)年の「NWAチャンピオン・シリーズ」でのブルート・バーナード戦(11月15日、後楽園ホール)です。しかし、これらはすべてジャイアント馬場が欠場した大会での緊急措置という側面がありました。
ところが、この室蘭大会でのキニスキー戦は、馬場対バーナード戦をセミファイナルに配した上での、名実ともに正真正銘のメインエベントだったのです。現役の世界王者であるキニスキーに果敢に挑んだ猪木のファイトは、場内をすさまじい熱気で包み込みました。名レフェリーである沖識名が見守る中、世界王者をあと一歩のところまで追い詰めながらも、最後は「荒法師」の必殺技であるバックドロップに沈み、25分35秒、体固めで惜敗いたしました。タイトルマッチにしてもおかしくないような素晴らしい試合内容でした。
キニスキーが初めて日本の土を踏んだのは、昭和39(1964)年4月3日に開幕した「第6回ワールド大リーグ戦」と、それに続く「ワールド選抜戦シリーズ」でした。当時はまだNWA世界王座戴冠前でしたが、ワールド大リーグ戦では見事に決勝進出を果たし、次期エースと目されていたジャイアント馬場とも数多くのシングルマッチを行なっています。しかし、猪木は同年3月6日の試合を最後に渡米してしまったため、この日本での初来日時には両者の対戦は実現しませんでした。
キニスキーの2度目の来日は、昭和42(1967)年8月、NWA認定世界ヘビー級王者としての堂々たる凱旋でした。しかし、この時の試合数はわずかに2回のみ。馬場が保持するインターナショナルヘビー級王座に挑戦した、8月10日の田園コロシアム大会と8月14日の大阪スタヂアム大会だけであったため、やはり猪木とのシングルマッチはありませんでした。
こうして、3回目の来日となった昭和43(1968)年の室蘭大会が、日本における両者の初対決となったのです。
しかし、実は両者の一騎打ちは、日本に先駆けて米国のアメリカマットですでに実現していました。猪木は昭和39(1964)年春に渡米し、昭和41(1966)年2月までハワイ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、テキサス東部、テネシーといった各地区をサーキットしていましたが、そのうちのテキサス東部地区に滞在していた際、キニスキーと3度にわたって対戦していたのです。
その貴重な記録が、昭和40(1965)年8月31日のダラス大会、9月21日のダラス大会、そして9月22日のサンアントニオ大会です。当時、キニスキーはインディアナポリスに本拠を置くWWAを中心に、テキサス東部やパシフィックノースウェスト(オレゴン、ワシントン地区)、セントルイスなどへ遠征を重ねていました。同年8月21日にディック・ザ・ブルーザーを破ってWWA認定[インディアナポリス版]世界ヘビー級王座を獲得したキニスキーは、その王座を保持したままテキサスへ乗り込んできます。そして、戴冠から10日後となる8月31日、ダラスの地で猪木との初の一騎打ちが行われ、王者が勝利を収めました。
その3週間後、キニスキーは再びダラスのマットに登場します。この日は、フリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・コックス、マーク・ルーイン、ザ・デストロイヤーといった錚々たる強豪が顔を揃える12人参加のバトルロイヤルが開催されました。このバトルロイヤルは、「勝ち残った最後の二人が、メインエベントで3本勝負のシングルマッチを行う」という過酷なルールでしたが、なんとその激戦を勝ち抜き、最後にリングに残ったのがキニスキーと猪木だったのです。猪木は果敢に王者へ挑み、大健闘を見せたものの、惜しくも2-1で敗退してしまいます。さらにその翌日、サンアントニオで3度目のシングルマッチが行われましたが、ここでも猪木はリベンジを果たすことはできませんでした。当時キニスキーが保持していた世界タイトルはWWAのエリアで認定されていたものであったため、このテキサスでの3連戦はすべてノンタイトルマッチとして行われたものと推測されます。
この遠征の後、キニスキーは12月25日にインディアナポリスでブルーザーに敗れてWWA世界王座を失いますが、そのわずか2週間後となる翌年1月7日、セントルイスにてプロレスの神様ルー・テーズを破り、ついに世界の頂点であるNWA認定世界ヘビー級王座を手に入れることになります。
通算4度にわたって戦いながらも、ついに勝利の大金星を挙げることができなかった猪木。のちに新日本プロレスを旗揚げし、世界の強豪を迎え撃つようになった10年ほどの間に、「もう一度、全盛期の二人の対決を見たかった」と思いを馳せるオールドファンは、決して少なくないのではないでしょうか。
[昭和40(1965)年]
ガルフ・アスレティック・クラブ
昭和40(1965)年8月31日(火曜日)
米国/テキサス州ダラス/ダラス・スポータトリアム
□シングルマッチ
ジン・キニスキー(勝ち)猪木完至
※G・キニスキーはWWA認定[インディアナポリス版]世界ヘビー級王者。
昭和40(1965)年9月21日(火曜日)
米国/テキサス州ダラス/ダラス・スポータトリアム
□バトルロイヤル(12人参加)
[参加選手] ジン・キニスキー、フリッツ・フォ・エリック、キラー・カール・コックス、マーク・ルーイン、ザ・デストロイヤー(ディック・ベイヤー)、猪木完至、ビクター・リベラ、マイティ・ヤンキー1号(ボブ・スタンリー)、マイティ・ヤンキー2号(ムース・エバンス)、ケン・ホリス、ルイ・チレ、グレート・デーン。
[結 果] 猪木完至とG・キニスキーが残留。
※勝ち残った二人がメーンエベントでシングルマッチを行なうというルール。
□シングルマッチ(3本勝負)
ジン・キニスキー(2-1)猪木完至
①キニスキー(勝ち)猪木
②猪木(勝ち)キニスキー
③キニスキー(勝ち)猪木
※G・キニスキーはWWA認定[インディアナポリス版]世界ヘビー級王者。
昭和40(1965)年9月22日(水曜日)
米国/テキサス州サンアントニオ/サンアントニオ・ミュニシパル・オーデトリアム
□シングルマッチ
ジン・キニスキー(勝ち)猪木完至
※G・キニスキーはWWA認定[インディアナポリス版]世界ヘビー級王者。
[昭和43(1968)年]
NWAチャンピオン・シリーズ(日本プロレス)
昭和43(1968)年11月29日(金曜日)、北海道室蘭市/富士製鐵室蘭健康保険組合体育館
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分1本勝負)、レフェリー:沖識名
ジン・キニスキー(25分35秒、体固め)アントニオ猪木
※G・キニスキーはNWA認定世界ヘビー級王者。
テキサスでの3連戦、そして室蘭での大激闘を含め、猪木にとってジン・キニスキーは、ついに一度も勝利を奪うことができなかった「高すぎる壁」としてプロレス史に刻まれることになりました。
しかし、室蘭大会で馬場をセミファイナルに回し、猪木が世界の頂点であるキニスキーとメインエベントで対峙したという事実は、当時のプロレス界における猪木の存在感がジャイアント馬場と比肩するまでに巨大化していた証拠でもあります。あのバックドロップに沈んだ瞬間の悔しさと、世界王者をあと一歩まで追い詰めたという自信こそが、のちの「燃える闘魂」を育み、新日本プロレス旗揚げへと繋がる原動力になったことは間違いありません。
もしも、昭和50年代の異種格闘技戦や「過激なプロレス」を標榜していた全盛期のアントニオ猪木が、ふたたびジン・キニスキーと相まみえていたなら、一体どのような結末を迎えていたのでしょうか。コブラツイストや卍固めは、あのタフな荒法師に通じたのか。あるいはキニスキーの執拗な膝蹴りが猪木の闘魂を打ち砕いたのか。
実現しなかったからこそ、ファンの夢は果てしなく膨らみます。時代を超えて語り継がれる室蘭の夜は、猪木が世界の頂点へと駆け上がる足跡の中で、最も美しく、そして最も激しいノンタイトルマッチとして、今も私たちの記憶の中で輝き続けています。