若き日のアントニオ猪木が、日本プロレスの重鎮・遠藤幸吉に挑んだ若手時代の軌跡。
のちに新日本プロレスを旗揚げし、世界の格闘技界を牽引することになるアントニオ猪木ですが、デビュー間もない1960年代前半には、先輩レスラーたちの高い壁が立ちはだかっていました。
猪木が日本プロレスの四天王である力道山、豊登、吉村道明、遠藤幸吉とシングルマッチで最初にぶつかった相手は遠藤でした。まさにこの遠藤戦こそが、若き猪木がマット界の頂点へと上り詰めるための「闘いの始まり」だったと言えます。
本ページでは、猪木がまだ「猪木完至」と名乗っていた時代から「アントニオ猪木」へと脱皮していく過渡期に行われた、遠藤幸吉とのシングルマッチの全試合結果を網羅しています。若き闘魂の成長と、四天王の意地がぶつかり合った黎明(れいめい)期の記録をご覧ください。
[昭和37(1962)年]
第4回ワールド大リーグ戦
昭和37(1962)年5月7日(月曜日)、宮崎県都城市/都城市営球場前広場
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(13分48秒、体固め)猪木完至
プロレス国際選抜戦
昭和37(1962)年6月2日(土曜日)、東京都昭島市/昭島市立昭和公園相撲場
□シングルマッチ(45分3本勝負)
遠藤幸吉(2-0)猪木完至
①遠藤(11分24秒、逆エビ固め)猪木(体固め説あり)
②遠藤(9分45秒、体固め)猪木
昭和37(1962)年6月8日(金曜日)、大阪府枚方市/ひらかたパーク大劇場
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(7分29秒、体固め)猪木完至
昭和37(1962)年6月12日(火曜日)、高知県高知市/高知県民ホール
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(11分5秒、体固め)猪木完至
昭和37(1962)年6月22日(金曜日)、福岡県八幡市/安川電機体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(7分29秒、体固め)猪木完至
昭和37(1962)年6月30日(土曜日)、鳥取県鳥取市/鳥取市立体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(11分13秒、片腕固め)猪木完至(片足固め説あり)
プロレス国際試合夏の陣
昭和37(1962)年7月27日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(14分23秒、片腕固め)猪木完至
昭和37(1962)年8月17日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(45分3本勝負)
遠藤幸吉(2-1)猪木完至
①遠藤(11分8秒、体固め)猪木
②遠藤(1分44秒、両者ノックアウト)猪木(1分49秒説あり)
【1本目】
1本目、若き闘魂・猪木が最初からエンジン全開で遠藤を攻め立てます。得意のキーロックで遠藤の左腕を徹底的に捕獲。遠藤は代名詞である背負い投げを繰り出して局面の打開を図りますが、猪木は執拗に再びキーロックへ。
しかし、ここから遠藤が老獪(ろうかい)なテクニックを見せます。わずかな隙からボディシザーズ、ヘッドロックへと移行。さらに猪木をロープへ振ると、待っていました!芸術的な十八番のドロップキックが猪木の胸元を捉え、遠藤が鮮やかに1本を先取しました。
【2本目】
迎えた2本目、遠藤は勢いそのままに首投げの連発で攻め込みます。対する猪木も一瞬の隙を突き、反撃のドロップキックを敢行!ところが、遠藤も同時にドロップキックで応戦します。意地と意地がぶつかり合う空中戦は、なんと3連続で相打ちに。
壮絶な相打ちの末、猪木は後頭部、遠藤は腰部を激しく痛打し、リング上は両者ノックアウトという壮絶極まる結末を迎えました。結果、トータルスコア2-1で、遠藤幸吉が若き挑戦者を退けました。
プロレス国際試合秋の陣
昭和37(1962)年9月19日(水曜日)、大阪府大阪市/大阪府立体育会館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(15分2秒、逆片エビ固め)猪木完至(15分1秒説あり)
昭和37(1962)年9月25日(火曜日)、秋田県秋田市/秋田市立体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(10分20秒、逆エビ固め)猪木完至
[昭和38(1963)年]
プロレス国際試合新春シリーズ
昭和38(1963)年1月11日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(13分54秒、逆片エビ固め)アントニオ猪木
昭和38(1963)年1月27日(日曜日)、愛知県一宮市/一宮市立体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(9分50秒、体固め)アントニオ猪木
プロレス国際試合
昭和38(1963)年2月8日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(12分27秒、体固め)アントニオ猪木
東京オリンピック協賛、第5回ワールド大リーグ戦
昭和38(1963)年3月28日(木曜日)、愛知県名古屋市/名古屋市金山体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(13分4秒、逆エビ固め)アントニオ猪木
昭和38(1963)年4月3日(水曜日)、愛媛県松山市/城北国鉄グラウンド
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(13分0秒、逆エビ固め)アントニオ猪木
昭和38(1963)年4月22日(月曜日)、兵庫県姫路市/姫路市厚生会館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
遠藤幸吉(15分0秒、逆エビ固め)アントニオ猪木
昭和38(1963)年4月30日(火曜日)、新潟県新潟市/新潟市体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
遠藤幸吉(18分30秒、体固め)アントニオ猪木
昭和38(1963)年5月5日(日曜日)、北海道札幌市/北海道立札幌中島スポーツセンター
□シングルマッチ(20分1本勝負)
アントニオ猪木(7分8秒、反則勝ち)遠藤幸吉
オリンピック協賛、プロレス国際戦・夏の陣
昭和38(1963)年7月26日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(30分1本勝負)
アントニオ猪木(13分39秒、反則勝ち)遠藤幸吉
プロレス国際戦・続夏の陣
昭和38(1963)年8月30日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(20分1本勝負)
遠藤幸吉(8分34秒、逆片エビ固め)アントニオ猪木
オリンピック協賛、秋季ワールド戦
昭和38(1963)年9月20日(金曜日)、青森県三戸町/三戸町立三戸中学校運動場
□シングルマッチ(20分1本勝負)
遠藤幸吉(11分20秒、逆片エビ固め)アントニオ猪木
昭和38(1963)年10月1日(火曜日)、東京都墨田区/日本大学講堂
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(10分35秒、逆片エビ固め)アントニオ猪木
昭和38(1963)年10月13日(日曜日)、奈良県奈良市/奈良ドリームランド前広場
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(9分22秒、体固め)アントニオ猪木
昭和38(1963)年10月15日(火曜日)、兵庫県尼崎市/尼崎市体育会館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
アントニオ猪木(7分48秒、反則勝ち)遠藤幸吉
昭和38(1963)年10月17日(木曜日)、広島県福山市/福山市中央公園
□シングルマッチ(30分1本勝負)
アントニオ猪木(13分15秒、反則勝ち)遠藤幸吉
昭和38(1963)年10月22日(火曜日)、熊本県熊本市/熊本市体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(14分49秒、逆片エビ固め)アントニオ猪木
昭和38(1963)年10月29日(火曜日)、福岡県北九州市/北九州市立若松文化体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
アントニオ猪木(16分17秒、反則勝ち)遠藤幸吉
プロレス・デストロイヤー・シリーズ
昭和38(1963)年12月2日(月曜日)、東京都渋谷区/東京都体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(10分57秒、体固め)アントニオ猪木
昭和38(1963)年12月3日(火曜日)、大阪府大阪市/大阪府立体育会館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
アントニオ猪木(14分20秒、体固め)遠藤幸吉
プロレス力道山追悼大会
昭和38(1963)年12月20日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(10分1本勝負)
遠藤幸吉(時間切れ)アントニオ猪木
[昭和39(1964)年]
プロレス国際戦・春の陣
昭和39(1964)年2月16日(日曜日)、東京都墨田区/日本大学講堂
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(12分53秒、体固め)アントニオ猪木
昭和39(1964)年2月23日(日曜日)、大阪府布施市/三ノ瀬公園
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(11分10秒、逆片エビ固め)アントニオ猪木
昭和39(1964)年2月29日(土曜日)、福島県郡山市/郡山市民会館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
遠藤幸吉(11分4秒、エビ固め)アントニオ猪木
互いの意地と意地が限界まで激突した日々を経て、ついに二人がシングルマッチのリングで向かい合う「最後の時」が訪れます。それが、昭和39(1964)年2月29日、うるう年の土曜日に福島県郡山市の郡山市民会館で行われた一戦でした。
3500人の大観衆が見守る中、猪木は持てる力のすべてを尽くして偉大なる先達に肉薄したものの、遠藤が11分4秒、熟練のエビ固めで若き闘魂をピンフォール。これが、二人の長い戦いの歴史に打たれた最後の終止符となりました。
そしてドラマは、この最終戦からわずか6日後に急展開を迎えます。同年3月6日、リキ・スポーツ・パレスにて『プロレス国際戦・春の陣』が熱戦の幕を閉じると、猪木は休む間もなくハワイの空へと旅立ちます。遠藤とのあの激闘を日本での置き土産にするかのように、若き闘魂は瞬く間に海を渡ったのです。
わずか数日後の11日にはホノルルのリングに立ち、ハワイ地区認定ユナイテッドステーツヘビー級王者の牙城、カーティス・イヤウケアとの至高の一騎打ちに挑戦。その後、海外での長い闘いを経て、猪木が再び日本のファンの前にその雄姿を現したのは、昭和41(1966)年10月12日。自ら立ち上げた伝説の「東京プロレス」旗揚げの地でした。
一方、日本プロレスに残り、激動のマット界を支え続けた先輩の遠藤は、猪木が日本を離れている間の昭和41年1月12日、原町市大会で行われた大熊熊五郎(大熊元司)戦を最後に、現役生活に終止符を打っていました。
郡山でのラストマッチからわずか6日後に新天地へ向かった猪木と、その帰国を待たずして一足先にマット界を去った遠藤。二人の歩む道が郡山の一戦を境に完全に分かれたことにより、これ以後、彼らが四角いジャングルで向かい合うことは二度とありませんでした。