日本のプロレス界を支えた巨頭、ジャイアント馬場と「荒法師」と呼ばれた豪傑ジン・キニスキーは、昭和39年の「第6回ワールド大リーグ戦」で初めて対戦しました。それ以来、両者のシングルマッチは昭和54年までに18回行われています。その通算成績は馬場の7勝(1反則勝ちを含む)1敗10引き分けでした。
「第6回ワールド大リーグ戦」の期間中には、公式戦も含めて3回のシングルマッチが組まれましたが、頑丈な肉体とスタミナを誇る両者の激突はすべて時間切れ引き分けに終わっています。それに引き続いて行われた「ワールド選抜戦シリーズ」でも、3回のシングルマッチが行われました。最初の2回は引き分けでしたが、6月13日のシリーズ最終戦(平塚大会)で、ついに馬場は2-1でキニスキーに勝利し、長い熱戦にひとつの決着をつけました。
キニスキーは昭和41(1966)年1月7日、ミズーリ州セントルイスのキール・オーデトリアムで「鉄人」ルー・テーズを破り、第9代のNWA認定世界ヘビー級王者となります。その翌年、現役のNWA世界王者として来日し、東京と大阪においてジャイアント馬場とシングルマッチで対戦しました。この時は自らのNWA世界王座は賭けずに、馬場が持つインターナショナルヘビー級王座への挑戦という形でした。この昭和42(1967)年8月14日に行われた大阪球場でのタイトルマッチは、1-1の後に時間切れ引き分けとなり、キニスキー自身の申し出で5分間の延長戦を行っても決着がつかないという、計65分間に及ぶ死闘となりました。この試合は、2万人を超える超満員の観客を大興奮に包み、のちにジャイアント馬場自身が著書で「生涯のベストバウト(最高試合)」と公言するほどの伝説となっています。
昭和43(1968)年にも、キニスキーはNWA王者として来日して馬場と2度のタイトルマッチを行いましたが、この時も馬場のインターナショナルヘビー級王座への挑戦者であり、NWA世界王座の防衛戦は行いませんでした。その後、昭和44(1969)年2月11日、フロリダ州タンパのフォート・ホーマー・ヘスタリー・アーモリーでドリー・ファンク・ジュニアに敗れ、キニスキーはNWA世界王座を失ってしまいます。
昭和45(1970)年には無冠のままで来日しましたが、12月3日の大阪大会でついに馬場を破り、インターナショナルヘビー級王座を奪取しました。これにより、馬場が積み上げてきた同王座の連続防衛記録は「18」でストップすることになります。しかし、負け放しではいられない馬場も執念を見せ、この王座はわずか2週間後にロサンゼルスにおいてすぐさま奪還されています。
全日本プロレスへの舞台転換と絆舞台を全日本プロレスに移してからも、両者のプライドをかけた闘いは続きました。新団体においてPWF認定世界ヘビー級王座を賭けて激しく戦ったり、春の祭典である「チャンピオン・カーニバル」の決勝戦で激しく優勝を争ったりしました。馬場はキニスキーのことを「力で世界を制した最後の大チャンピオン」と高く評価していました。
[昭和39(1964)年]
第6回ワールド大リーグ戦(日本プロレス)
昭和39(1964)年4月7日(火曜日)、愛知県豊橋市/豊橋市体育館
□シングルマッチ(45分3本勝負)
ジャイアント馬場(0-0)ジン・キニスキー
①馬場(時間切れ)キニスキー
昭和39(1964)年4月17日(金曜日)、香川県高松市/高松市体育館
□ワールドリーグ戦(8分3ラウンド1本勝負)
ジャイアント馬場(時間切れ)ジン・キニスキー
昭和39(1964)年5月6日(水曜日)、大阪府大阪市/大阪府立体育会館
□シングルマッチ(45分3本勝負)、レフェリー:沖識名
ジャイアント馬場(1-1)ジン・キニスキー
①キニスキー(13分16秒、体固め)馬場
②馬場(3分25秒、体固め)キニスキー
③馬場(6分0秒、両者リングアウト)キニスキー
ワールド選抜戦シリーズ(日本プロレス)
昭和39(1964)年5月28日(木曜日)、北海道札幌市/北海道立札幌中島スポーツセンター
□シングルマッチ(45分3本勝負)
ジャイアント馬場(1-1)ジン・キニスキー
①キニスキー(13分9秒、体固め)馬場
②馬場(20分0秒、体固め)キニスキー
③馬場(時間切れ)キニスキー
昭和39(1964)年6月1日(月曜日)、北海道釧路市/釧路市厚生年金体育館
□シングルマッチ(45分3本勝負)
ジャイアント馬場(1-1)ジン・キニスキー
①キニスキー(13分0秒、リングアウト)馬場
②馬場(2分6秒、エビ固め)キニスキー
③馬場(4分3秒、両者リングアウト)キニスキー
昭和39(1964)年6月13日(土曜日)、神奈川県平塚市/平塚市立見附台体育館
□シングルマッチ(45分3本勝負)
ジャイアント馬場(2-1)ジン・キニスキー
①キニスキー(14分8秒、体固め)馬場
②馬場(0分46秒、体固め)キニスキー
③馬場(4分39秒、リングアウト)キニスキー
[昭和42(1967)年]
第1次サマー・シリーズ(日本プロレス)
昭和42(1967)年8月10日(木曜日)、東京都大田区/田園コロシアム
□WWA認定インターナショナルヘビー級選手権試合(60分3本勝負)、レフェリー:沖識名
ジャイアント馬場(1-1)ジン・キニスキー
①キニスキー(24分4秒、逆エビ固め)馬場
②馬場(3分14秒、エビ固め)キニスキー
③馬場(2分40秒、両者リングアウト)キニスキー(2分14秒説あり)
※第3代王者G馬場が13度目の防衛に成功する。G・キニスキーはNWA認定世界ヘビー級王者。
昭和42(1967)年8月14日(月曜日)、大阪府大阪市/大阪スタヂアム(大阪球場)
□WWA認定インターナショナルヘビー級選手権試合(60分3本勝負)、レフェリー:沖識名
ジャイアント馬場(1-1)ジン・キニスキー
①馬場(28分13秒、エビ固め)キニスキー
②キニスキー(14分46秒、体固め)馬場
③馬場(時間切れ)キニスキー
□同延長戦(5分1本勝負)
ジャイアント馬場(時間切れ)ジン・キニスキー
※第3代王者G馬場が14度目の防衛に成功する。G・キニスキーはNWA認定世界ヘビー級王者。
[昭和43(1968)年]
NWAチャンピオン・シリーズ(日本プロレス)
昭和43(1968)年12月1日(日曜日)、宮城県仙台市/宮城県スポーツセンター
□NWA認定インターナショナルヘビー級選手権試合(60分3本勝負)、レフェリー:沖識名
ジャイアント馬場(0-0)ジン・キニスキー
①馬場(時間切れ)キニスキー
※第5代王者G馬場が4度目の防衛に成功する。G・キニスキーはNWA認定世界ヘビー級王者。
昭和43(1968)年12月6日(金曜日)、東京都台東区/蔵前国技館
□NWA認定インターナショナルヘビー級選手権試合(90分3本勝負)、レフェリー:沖識名
ジャイアント馬場(2-1)ジン・キニスキー
①キニスキー(29分24秒、片エビ固め)馬場
②馬場(5分46秒、エビ固め)キニスキー
③馬場(23分8秒、反則勝ち)キニスキー
※第5代王者G馬場が5度目の防衛に成功する。G・キニスキーはNWA認定世界ヘビー級王者。
昭和43(1968)年12月7日(土曜日)、栃木県宇都宮市/栃木県体育館
□シングルマッチ/ノンタイトル(30分1本勝負)
ジャイアント馬場(時間切れ)ジン・キニスキー
※G馬場はNWA認定インターナショナルヘビー級王者で、G・キニスキーはNWA認定世界ヘビー級王者。
[昭和44(1969)年]
ミッド=パシフィック・プロモーション
昭和44(1969)年9月24日(水曜日)
米国/ハワイ州ホノルル/ホノルル・インターナショナル・センター
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分3本勝負)
ジャイアント馬場(0-0)ジン・キニスキー
①馬場(時間切れ)キニスキー
※G馬場はNWA認定インターナショナルヘビー級王者。
[昭和45(1970)年]
インター・チャンピオン・シリーズ(日本プロレス)
昭和45(1970)年12月3日(木曜日)、大阪府大阪市/大阪府立体育会館
□NWA認定インターナショナルヘビー級選手権試合(60分3本勝負)、レフェリー:ユセフ・トルコ
ジン・キニスキー(2-1)ジャイアント馬場
①馬場(29分55秒、エビ固め)キニスキー
②キニスキー(6分8秒、体固め)馬場(6分9秒説あり)
③キニスキー(5分10秒、体固め)馬場
※第5代王者G馬場が19度目の防衛に失敗。G・キニスキーが第6代王者になる。
NWAハリウッド・レスリング
昭和45(1970)年12月18日(金曜日)
米国/カリフォルニア州ロサンゼルス/オリンピック・オーデトリアム
□NWA認定インターナショナルヘビー級選手権試合(60分3本勝負)
ジャイアント馬場(2-1)ジン・キニスキー
①馬場(26分42秒、エビ固め)キニスキー
②キニスキー(8分3秒、体固め)馬場
③馬場(7分5秒、逆片エビ固め)キニスキー(7分45秒説あり)
レフェリー:レッドシューズ・ドゥーガン
※第6代王者G・キニスキーが初防衛に失敗。G馬場が第7代王者になる。
[昭和49(1974)年]
エキサイト・シリーズ(全日本プロレス)
昭和49(1974)年3月15日(金曜日)、宮城県仙台市/宮城県スポーツセンター
□PWF認定ヘビー級選手権試合(61分3本勝負)、レフェリー:ジョー樋口
ジャイアント馬場(2-1)ジン・キニスキー
①キニスキー(17分36秒、体固め)馬場
②馬場(3分55秒、エビ固め)キニスキー
③馬場(11分35秒、後方回転エビ固め)キニスキー
※初代王者G馬場が14度目の防衛に成功する。
[昭和50(1975)年]
第3回チャンピオン・カーニバル(全日本プロレス)
昭和50(1975)年5月3日(土曜日、祝日)、和歌山県和歌山市/和歌山県立体育館
□チャンピオン・カーニバル決勝戦/ノンタイトル(60分3本勝負)、レフェリー:ジョー樋口
ジャイアント馬場(2-1)ジン・キニスキー
①馬場(12分12秒、体固め)キニスキー
②キニスキー(3分2秒、体固め)馬場
③馬場(3分25秒、エビ固め)キニスキー
※G馬場が第3回チャンピオン・カーニバルに優勝する。馬場はPWF認定ヘビー級王者。
[昭和52(1977)年]
ミッド=パシフィック・プロモーション
昭和52(1977)年6月29日(水曜日)
米国/ハワイ州ホノルル/ブロック・アリーナ
□シングルマッチ/ノンタイトル
ジャイアント馬場(勝ち)ジン・キニスキー
※G馬場はPWF認定ヘビー級王者。
[昭和54(1979)年]
NWAチャンピオン・シリーズ(全日本プロレス)
昭和54(1979)年5月2日(水曜日)、長崎県長崎市/長崎国際体育館
□シングルマッチ/ノンタイトル(30分1本勝負)
ジャイアント馬場(14分38秒、リングアウト)ジン・キニスキー
※G馬場はPWF認定ヘビー級王者。
激しい闘いを繰り広げた二人でしたが、リング外では深い信頼関係で結ばれていました。平成11(1999)年にジャイアント馬場が亡くなった際、東京ドームで行われた引退記念興行(ファン葬)には、かつての宿敵であるキニスキーもわざわざ来日して参列しました。キニスキーは「馬場は偉大なスポーツマンであり、真の紳士だった」という涙ながらのメッセージを寄せ、二人の特別な絆は最後までプロレスファンの心を打ち続けました。