「テキサス・ブロンコ」テリー・ファンクと「デトロイトの呪術師」ザ・シーク。日米のプロレス史に血の足跡を刻んだ両雄の壮絶なシングルマッチは、昭和47年8月に幕を開けました。シークがテリーの地元でありホームリングであるテキサスへ殴り込む形で実現した初対決は、凄惨な乱撃戦の末に両者反則という大荒れの結末を迎えます。しかし、同年10月にルボックで行われたアラビアン・デスマッチでは、テリーがシークを執念で破り、意地を見せつけました。
昭和50年12月10日、テリーはフロリダ州マイアミでジャック・ブリスコを破り、世界最高峰の権威である第15代NWA認定世界ヘビー級王座を戴冠。実兄ドリー・ファンク・ジュニアに続く「史上初の兄弟世界王者」となりました。王者となったテリーの前に最強の刺客として立ちはだかったのがシークです。昭和52年1月21日、テキサス州ヒューストンで行われた防衛戦は、3本勝負の末にテリーが2-1でシークを退け、見事に王座を死守。テリーは翌月2月にハーリー・レイスに敗れて王座を失いますが、無冠となった直後の5月20日にもヒューストンでシークとテキサス・デスマッチで激突し、ここでもシークの野望を粉砕しています。
執拗にテリーを付け狙うシークは、舞台を自身のホームマットであるミシガン州デトロイトのコボ・アリーナへと移します。昭和52年7月、シークの招聘に応じる形でデトロイトへ乗り込んだテリーは、怨念渦巻く完全アウェイの地で2連戦を敢行。初戦こそシークの凶器攻撃による反則勝ちとなったものの、2週間後の第2戦ではシークが意地の勝利をあげてテリーを撃破しました。勢いに乗るシークは、翌年4月16日にも同所でテリーを相手にUSヘビー級王座の防衛に成功。しかし両者の王座を巡る執念はこれに留まらず、同年10月22日、今度は王者として防衛戦に臨んだテリーに対し、シークが地元デトロイトのコボ・アリーナで猛襲を仕掛けます。激闘の末にテリーを破ったシークが王座を奪取し、再びUSヘビー級王座のベルトをその腰に巻き戻しました。
この昭和52年12月には、全日本プロレスにおいて「世界オープンタッグ選手権」が開催され、テリー&ドリーのザ・ファンクスと、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークによる伝説の抗争が勃発。シークたちの容赦ないテロ行為に右腕をメッタ刺しにされながらも立ち向かうテリーの姿は、日本中で社会現象的なアイドル人気を巻き起こすことになります。
その後、昭和53年12月から昭和56年12月にかけて、両雄の闘いの舞台は日本(全日本プロレス)へと移ります。激化する抗争の中で6回のシングルマッチが行われ、結果はテリーの4勝2分け。数字の上ではテリーが勝ち越したものの、その勝利はすべてシークの度重なる暴走による「反則勝ち」であり、完全決着には程遠い泥沼の肉弾戦が続きました。昭和57年4月には、3年半ぶりにアメリカのリングで相まみえましたが、この一戦の結果は今なお謎に包まれています。
そして時代は平成へ移り、11年の歳月を経て両雄は再び日本のマットで巡り合います。激突の舞台となったのは、大仁田厚が率いる過激なインディー団体「FMW」でした。満身創痍となりながらもハードコアの魂を燃やす両者は、平成5年8月28日の後楽園ホールで対戦。ここでもシークの乱暴狼藉による反則勝ちという、昭和の再現のような幕切れとなります。しかし、本当の終止符はその翌年に打たれました。平成6年5月5日、超満員の川崎球場。フォールでの決着を認めず、相手を戦闘不能にするまで終わらない「ノーフォールマッチ(KO決着ルール)」という、これ以上ない過酷なデスマッチ形式が用意されました。激しい血しぶきが舞う中、テリーは代名詞である「テキサス魂」を爆発させ、シークを壮絶なノックアウトで撃破。足掛け22年に及んだ、プロレス史に残る凶悪なライバル抗争に、ついに完全なる終止符を打ったのです。
[昭和47(1972)年]
NWAウェスタン・ステーツ・スポーツ
昭和47(1972)年8月23日(水曜日)
米国/テキサス州ルボック/フェア・パーク・コロシアム
□シングルマッチ
テリー・ファンク(両者反則)ザ・シーク
昭和47(1972)年10月4日(水曜日)
米国/テキサス州ルボック/フェア・パーク・コロシアム
□アラビアンデスマッチ
テリー・ファンク(勝ち)ザ・シーク
[昭和52(1977)年]
ワールド・クラス・チャンピオンシップ・レスリング
昭和52(1977)年1月21日(金曜日)
米国/テキサス州ヒューストン/サム・ヒューストン・コロシアム
□NWA認定世界ヘビー級選手権試合(3本勝負)
テリー・ファンク(2-1)ザ・シーク
③ファンク(カウントアウト)シーク
※第15代王者T・ファンクが王座防衛に成功する。ザ・シークはNWA認定[トロント地区]ユナイテッドステーツヘビー級王者。
昭和52(1977)年5月20日(金曜日)
米国/テキサス州ヒューストン/サム・ヒューストン・コロシアム
□テキサスデスマッチ
テリー・ファンク(勝ち)ザ・シーク
※ザ・シークはNWA認定[デトロイト地区]&NWA認定[トロント地区]ユナイテッドステーツヘビー級王者。
ビッグ・タイム・レスリング
昭和52(1977)年7月9日(土曜日)
米国/ミシガン州デトロイト/コボ・アリーナ
□シングルマッチ
テリー・ファンク(反則勝ち)ザ・シーク
※ザ・シークはNWA認定[トロント地区]ユナイテッドステーツヘビー級王者。
昭和52(1977)年7月23日(土曜日)
米国/ミシガン州デトロイト/コボ・アリーナ
□シングルマッチ
ザ・シーク(勝ち)テリー・ファンク
※ザ・シークはNWA認定[トロント地区]ユナイテッドステーツヘビー級王者。
[昭和53(1978)年]
ビッグ・タイム・レスリング
昭和53(1978)年4月16日(日曜日)
米国/ミシガン州デトロイト/コボ・アリーナ
□NWA認定[デトロイト地区]ユナイテッドステーツヘビー級選手権試合
ザ・シーク(勝ち)テリー・ファンク
※ザ・シークが王座防衛に成功する。
NWAウェスタン・ステーツ・スポーツ
昭和53(1978)年5月28日(日曜日)
米国/テキサス州ルボック/フェア・パーク・コロシアム
□ラシアンチェーンマッチ
テリー・ファンク(結果不明)ザ・シーク
ビッグ・タイム・レスリング
昭和53(1978)年10月22日(日曜日)
米国/ミシガン州デトロイト/コボ・アリーナ
□NWA認定[デトロイト地区]ユナイテッドステーツヘビー級選手権試合
ザ・シーク(勝ち)テリー・ファンク
※T・ファンクが王座防衛に失敗。ザ・シークが新王者になる。
’78世界最強タッグ決定リーグ戦(全日本プロレス)
昭和53(1978)年12月8日(金曜日)、岐阜県岐阜市/岐阜市民センター
□スペシャルシングルマッチ/ノンタイトル(30分1本勝負)
ザ・シーク(6分2秒、両者リングアウト)テリー・ファンク
※ザ・シークはNWA認定[デトロイト地区]ユナイテッドステーツヘビー級王者。
[昭和54(1979)年]
’79世界最強タッグ決定リーグ戦(全日本プロレス)
昭和54(1979)年12月8日(土曜日)、徳島県徳島市/徳島市立体育館
□スペシャルシングルマッチ/ノンタイトル(30分1本勝負)、レフェリー:ジョー樋口
テリー・ファンク(3分18秒、反則勝ち)ザ・シーク
※ザ・シークはNWA認定[デトロイト地区]ユナイテッドステーツヘビー級王者。
昭和54(1979)年12月10日(月曜日)、大分県大分市/大分県立荷揚町体育館
□スペシャルシングルマッチ/ノンタイトル(30分1本勝負)
テリー・ファンク(5分40秒、反則勝ち)ザ・シーク
※ザ・シークはNWA認定[デトロイト地区]ユナイテッドステーツヘビー級王者。
[昭和55(1980)年]
第8回チャンピオン・カーニバル(全日本プロレス)
昭和55(1980)年4月28日(月曜日)、大分県大分市/大分県立荷揚町体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
テリー・ファンク(7分25秒、両者反則)ザ・シーク
’80世界最強タッグ決定リーグ戦(全日本プロレス)
昭和55(1980)年11月29日(土曜日)、静岡県清水市/鈴与記念体育館
□シングルマッチ/ノンタイトル(30分1本勝負)
テリー・ファンク(5分55秒、反則勝ち)ザ・シーク
※ザ・シークはICW認定ユナイテッドステーツヘビー級王者。
[昭和56(1981)年]
’81世界最強タッグ決定リーグ戦(全日本プロレス)
昭和56(1981)年12月10日(木曜日)、北海道旭川市/旭川市総合体育館
□シングルマッチ/ノンタイトル(30分1本勝負)
テリー・ファンク(6分19秒、反則勝ち)ザ・シーク
※ザ・シークはICW認定ユナイテッドステーツヘビー級王者。
[昭和57(1982)年]
NWAウェスタン・ステーツ・スポーツ
昭和57(1982)年4月2日(金曜日)
米国/テキサス州アマリロ/アマリロ・スポーツ・アリーナ
□シングルマッチ
テリー・ファンク(結果不明)ザ・シーク
[平成5(1993)年]
進撃!(FMW)
平成5(1993)年8月28日(土曜日)、東京都文京区/後楽園ホール
□スペシャルシングルマッチ(60分1本勝負)
テリー・ファンク(4分31秒、反則勝ち)ザ・シーク
[平成6(1994)年]
背水の陣(FMW)
平成6(1994)年5月5日(木曜日、祝日)、神奈川県川崎市/川崎球場
□スペシャルマッチ/ノーフォールマッチ(時間無制限1本勝負)
テリー・ファンク(5分59秒、ノックアウト)ザ・シーク
プロレス史にその名を刻む伝説のハードコアファイター、テリー・ファンクとザ・シーク。凶器が飛び交い、鮮血に染まる凄惨なデスマッチの数々は、単なる悪役と正統派の対立を超え、互いのプライドと執念がぶつかり合う魂の闘いそのものでした。
初対決から22年、川崎球場の夜空の下で迎えた完全決着は、昭和から平成へと続いた果てなき怨念にピリオドを打つと同時に、二人が築き上げた過激なプロレスの美学をファンの記憶に永遠に焼き付けることとなりました。リングを血で染め、時代を熱狂させた両雄の激闘譜は、今なお色褪せることなく、プロレス界の至高の伝説として語り継がれています。