坂口征二 対 ストロング小林

 昭和49(1974)年2月、電撃的に国際プロレスを離脱したストロング小林は、新日本プロレスのマットでアントニオ猪木への挑戦を果たしました。その後、WWWFへの遠征を経て、同年暮れに再度猪木に挑戦。年が明けた昭和50(1975)年1月から本格的に新日本プロレスのリングに上がった小林は、フリーの立場で猪木との再戦を狙うようになります。

 同年4〜5月に開催された「第2回ワールド・リーグ戦」でついにその機会が訪れますが、猪木戦の前に新日本プロレスのナンバー2である坂口征二が立ちはだかりました。開幕戦のリングで初対戦を迎えた両雄は、30分間を戦い抜いた末に時間切れ引き分けに終わっています。

 両者の2度目の対戦は、翌昭和51(1976)年5月7日の「第3回ワールド・リーグ戦」公式戦でした。この時は坂口が豪快なブレーンバスタードロップで小林からフォールを奪い、貴重な1勝を挙げます。小林にとってリベンジのチャンスは意外にも早く訪れ、約2カ月半後の7月24日、新日本プロレスが認定する初代アジアヘビー級王座決定リーグ戦で再び激突。ワールド・リーグ戦での敗戦を帳消しにしたい小林でしたが願いは届かず、両者リングアウトによる引き分けとなりました。

 昭和52(1977)年の「第4回ワールド・リーグ戦」は小林が左肘の負傷が完治せず欠場、昭和53(1978)年の「第1回MSGシリーズ」は小林のWWWF遠征が重なり欠場となったため、しばらくシングルマッチはお預けとなります。しかし、同年末に開催された「プレ日本選手権」の予選リーグ戦でついに再戦が実現。小林がリングアウト勝ちを収めて坂口に一矢報い、対戦成績をタイに戻しました。

 昭和54(1979)年の「第2回MSGシリーズ」では、小林が予選トーナメントの藤波辰巳戦で時間切れとなり、延長・再延長戦でも決着がつかず決勝リーグ進出の権利を放棄したため、坂口との対戦は見送られます。翌昭和55(1980)年の「第3回MSGシリーズ」では、予選を勝ち抜いた坂口に対し、小林も敗者復活トーナメントを這い上がって決勝リーグへと進出。6月4日に実現した対決は、坂口が体固めで小林を破りました。

 そして、両者の最後の対戦となったのが、翌昭和56(1981)年9月23日に田園コロシアムで行われた「IWGPアジアゾーン予選リーグ戦」です。この一戦は坂口がリングアウト勝ちを収め、激闘の歴史に終止符を打ちました。

 通算6試合に及んだライバル関係は、坂口の3勝1敗2分けという対戦成績が残されています。

[昭和50(1975)年]

第2回ワールド・リーグ戦(新日本プロレス)

 昭和50(1975)年4月4日(金曜日)、東京都台東区/蔵前国技館
□ワールド・リーグ公式戦(30分1本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
  坂口征二(時間切れ)ストロング小林

[昭和51(1976)年]

第3回ワールド・リーグ戦(新日本プロレス)

 昭和51(1976)年5月7日(金曜日)、香川県高松市/高松市民文化センター
□ワールドリーグ戦(30分1本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
  坂口征二(11分4秒、片エビ固め)ストロング小林

アジア・リーグ戦(新日本プロレス)

 昭和51(1976)年7月24日(土曜日)、島根県出雲市/出雲市体育館
□アジアヘビー級決勝リーグ戦(30分1本勝負)
  坂口征二(22分36秒、両者リングアウト)ストロング小林

[昭和53(1978)年]

プレ日本選手権(新日本プロレス)

 昭和53(1978)年11月30日(木曜日)、広島県広島市/広島県立体育館
□プレ日本選手権予選リーグ戦(30分1本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
  ストロング小林(14分28秒、リングアウト)坂口征二

[昭和55(1980)年]

第3回MSGシリーズ(新日本プロレス)

 昭和55(1980)年6月4日(水曜日)、愛知県名古屋市/愛知県体育館
□MSGシリーズリーグ戦/ノンタイトル(45分1本勝負)
  坂口征二(11分52秒、体固め)ストロング小林
   ※坂口征二はWWF認定北米ヘビー級王者。

[昭和56(1981)年]

ブラディ・ファイト・シリーズ(新日本プロレス)

 昭和56(1981)年9月23日(水曜日、祝日)、東京都大田区/田園コロシアム
□IWGPアジアゾーン予選リーグ戦(30分1本勝負)、レフェリー:柴田勝久
  坂口征二(9分53秒、リングアウト)ストロング小林

タッグマッチによる対戦

サマー・ファイト・シリーズ

 昭和54(1979)年7月6日(金曜日)、三重県四日市市/中央緑地体育館
□NWA認定北米タッグ選手権試合(61分3本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
  坂口征二&長州力(2-1)ストロング小林&木村健吾
   ①小林(15分59秒、カナダ式背骨折り)長州
   ②坂口(4分45秒、片エビ固め)木村
   ③長州(2分54秒、体固め)小林
   ※第10代王者チームの坂口征二&長州力が初防衛に成功する。

ビッグ・ファイト・シリーズ

 昭和55(1980)年3月10日(月曜日)、福島県保原町/保原町体育館
□タッグマッチ/ノンタイトル(30分1本勝負)
  坂口征二&長州力(1-0)ストロング小林&永源遙
   ◎長州(12分31秒、サソリ固め)永源
   ※坂口征二&長州力はNWA認定北米タッグ王者チーム。

ブラディ・ファイト・シリーズ

 昭和55(1980)年9月23日(火曜日、祝日)、広島県因島市/因島スポーツセンター
□タッグマッチ/ノンタイトル(20分1本勝負)
  坂口征二&長州力(0-0)ストロング小林&永源遙
   ◎坂口組(時間切れ)小林組
   ※坂口征二&長州力はNWA認定北米タッグ王者チーム。

メキシコ遠征

 昭和56(1981)年2月20日(金曜日)
 メキシコ合衆国/メヒコ州ネサワルコヨトル/アレナ・ネサワルコヨトル
□6人タッグマッチ
  坂口征二&カネック&スペル・マキナ
  (反則勝ち)ストロング小林&タイガー・ジェット・シン&バッファロー・アレン

 昭和56(1981)年2月22日(日曜日)
 メキシコ合衆国/メヒコ州ナウカルパン・デ・フアレス/エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス
□タッグマッチ(3本勝負)
  坂口征二&カネック(2-1)ストロング小林&バッファロー・アレン

 シングルマッチで数々の名勝負を繰り広げた坂口征二とストロング小林ですが、両者の戦いはタッグマッチの舞台でも熱く燃え上がっていました。昭和54(1979)年から昭和56(1981)年にかけて、国内外で計5回のタッグ対決が行われています。

 日本国内における最大のハイライトは、昭和54(1979)年7月6日に三重県四日市市で行われた「NWA認定北米タッグ選手権試合」です。坂口征二は長州力との王者コンビで、ストロング小林、木村健吾組の挑戦を2-1の3本勝負で退け、見事に初防衛を果たしました。また、昭和55(1980)年9月23日の因島大会では、坂口、長州組と小林、永源遙組が20分時分間戦い抜き、時間切れ引き分けという意地と意地のぶつかり合いを見せています。

 さらに特筆すべきは、昭和56(1981)年2月に敢行されたメキシコ遠征での一幕です。現地では坂口が「テクニコ(善玉、ベビーフェイス)」、小林が「ルード(悪玉、ヒール)」へと立場を変えて激突。2月20日のアレナ・ネサワルコヨトル大会(6人タッグマッチ)では、かつて日本マットで凄惨な死闘を繰り広げたはずの小林が、なんとあの悪名高き「インドの狂虎」タイガー・ジェット・シン、さらにはバッファロー・アレンと悪のトリオを結成。坂口、カネック、スペル・マキナ組と対戦するという、日本では絶対にあり得ない幻の超レアカードが実現しました。この一戦は小林側の反則負けに終わっていますが、メキシコならではの混沌としたマット界の縮図を示す貴重な記録となっています。翌々日の2月22日、エル・トレオでのタッグマッチ(3本勝負)でも、坂口、カネック組が小林、アレン組を2-1で下しており、メキシコの地でも坂口が意地を見せる結果となりました。

 シングルからタッグ、そして国境を越えたメキシコのリングに至るまで、昭和のプロレス黄金期を彩った坂口征二とストロング小林。二人が刻んだ濃厚な足跡は、今もなお昭和プロレス激闘史の眩しい1ページとして語り継がれています。

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