初日に15000人!昭和29年女子プロレス黎明期の歴史と伝説の来日大試合

 昭和29(1954)年11月、日本のプロレス界に新たな歴史の1ページが刻まれました。産業経済新聞社の主催により、6名の外国人女子レスラーが招へいされ、東京、大阪、神戸、京都の4都市で計7回にわたる興行が開催されたのです。大会名は「世界女子プロ・レスリング大試合」。当時、力道山が大ブームを巻き起こしていましたが、女子プロレスの本格的な国際試合は日本初であり、世間の注目を大いに集めました。

 参加した外国人選手は、以下の個性豊かな6名でした。
  ミルドレッド・バーク(世界選手権保持者)
  ルース・ボートキャリー(カリフォルニア州選手権保持者)
  グロリア・バラティーニ(イタリア選手権保持者)
  メイ・ヤング(ニューヨーク州選手権保持者)
  ビバリー・アンダーソン
  リタ・マルチネス

 世界王者である「女子プロレス界の女帝」ミルドレッド・バーク以外の肩書については、当時の興行を盛り上げるための誇大広告ではないかと疑う声もありましたが、彼女たちの実力と迫力は本物でした。特にメイ・ヤングは、後にアメリカのメジャー団体WWEの殿堂入りを果たすほどの伝説的なレスラーです。

 リタ・マルチネスを除く5名の選手は、11月10日午後0時45分、当時憧れの存在であったPAA機(パンアメリカン航空機)で東京国際空港(羽田空港)に降り立ちました。空港には多くの報道陣やファンが詰めかけ、熱烈な歓迎を受けました。その後、一行はなんと華やかなオープンカーに乗り込み、羽田から新橋を経て銀座へと向かう大々的な歓迎パレードを行なったのです。きらびやかな外国の女性レスラーたちが笑顔で手を振る姿に、銀座の街は黒山の人だかりとなり、一時騒然となりました。

 翌11日の午後1時からは、青山レスリング会館で公開練習が行なわれました。集まった記者たちの前で、彼女たちは筋力トレーニングや激しいスパーリングを披露し、その男勝りの肉体と技のキレで周囲を圧倒しました。遅れていたマルチネスも17日に無事来日し、ついに役者が揃います。

 そして11月19日、満を持して蔵前国技館にて熱戦の火蓋が切られました。会場には15000人もの大観衆が詰めかけ、超満員札止めとなる熱気の中での開幕となりました。観客のお目当ては、やはり世界王者バークの強さでした。彼女が放つ豪快なボディスラムや、鋭い関節技の数々に場内は大歓声に包まれました。

(産業経済新聞東京版昭和29年11月17日付第?面、国立国会図書館東京本館所蔵)

  昭和29(1954)年11月19日(金曜日)、東京都台東区/蔵前国技館
  試合開始:午後6時30分、観衆:15000人
1)女子シングルマッチ(20分3本勝負)
   田山勝美(2-0)橋本雅子
    ①田山(3分45秒、体固め)橋本
    ②田山(4分12秒、体固め)橋本
2)女子シングルマッチ(30分3本勝負)
   猪狩定子(2-0)法城寺宏衣
    ①猪狩(9分28秒、体固め)法城寺
    ②猪狩(5分30秒、体固め)法城寺
3)女子シングルマッチ(20分1本勝負)
   グロリア・バラティーニ(10分40秒、エビ固め)メイ・ヤング
4)女子シングルマッチ(20分1本勝負)、レフェリー:ボブ・アダムス
   リタ・マルチネス(時間切れ)ビバリー・アンダーソン
5)女子シングルマッチ/ノンタイトル(45分1本勝負)
   ミルドレッド・バーク(11分30秒、体固め)ルース・ボートキャリー
    ※M・バークはWWWA認定世界女子王者。
6)女子タッグマッチ(60分3本勝負)
   メイ・ヤング&ルース・ボートキャリー(2-1)グロリア・バラティーニ&リタ・マルチネス
    ①ボートキャリー(12分0秒、体固め)バラティーニ
    ②バラティーニ(2分30秒、体固め)ボートキャリー(2分3秒説あり)
    ③ヤング(2分40秒、押さえ込み)バラティーニ

 なお、この記念すべきツアーには、黎明期にあった日本の女子プロレス界からも若きレスラーたちが参戦し、前座試合を華やかに彩りました。全日本女子レスリング倶楽部からは猪狩定子、田山勝美、法城寺宏衣が、全日本プロレス協会からは堤麗子、そして橋本雅子が参加し、世界のトップレスラーたちの技を肌で学びながら、懸命なファイトで観客を沸かせました。

 試合のレフェリーを務めたのは、ボブ・アダムスとエルマ・ホーキンスの2名です。彼らがどのような経緯で選ばれたのか、また選手たちと同行して来日したのかといった詳細な記録は残されておらず、プロレス史の謎のひとつとなっています。

 一方で、大会を支えた裏方には豪華な顔ぶれが揃っていました。リングアナウンサーは、日本プロレスの力道山興行でもお馴染みの名調子で知られた阿久津直義が担当し、場内を大いに盛り上げました。さらに全体の司会進行は、戦前から戦後にかけて絶大な人気を誇った漫談家の松井翠声(すいせい)が務め、その軽妙洒脱な語り口で、緊迫した試合の合間に観客の笑顔を誘いました。

 この「世界女子プロ・レスリング大試合」は、単なる一過性の興行にとどまらず、日本における女子プロレスの認知度を飛躍的に高め、後の華やかな女子プロレスブームへと繋がる大いなる架け橋となったのです。

日本人選手たちのその後の活躍

 ミルドレッド・バーク一行との熱戦を終えた日本人選手たちは、世界レベルの技術を間近で体感したことで、その後のキャリアを大きく開花させていきました。彼女たちのその後の目覚ましい活躍と、日本女子プロレス界への多大な貢献について、いくつかの素晴らしいエピソードをご紹介します。

 来日興行から1年も経たない昭和30(1955)年9月11日、両国メモリアルホール(国際スタジアム)にて「全日本女子プロレスリング王座決定トーナメント」 の決勝戦が行なわれました。前座で火花を散らした猪狩定子と田山勝美がタッグを組み、宿敵であった小畑千代、伊藤静江組と激突。見事に勝利を収め、日本初のチャンピオンベルトとなる「初代日本女子ライト級タッグ王座」を戴冠したのです。この時の彼女たちの戦いぶりは『赤い激斗』というタイトルで記録映画化され、全国の映画館で上映されて大きな話題を呼びました。お色気中心と見られがちだった女子プロレスが、本格的な「闘いのスポーツ」として世間に認められた瞬間でした。

 「日本初の女子プロレスラー」として歴史に名を刻む猪狩定子(リリー猪狩)は、実は世界王者ミルドレッド・バークからその高い素質を見込まれ、「アメリカに来ないか」と直々にスカウトされていました。日本に残る道を選んだ彼女は、昭和34(1959)年に惜しまれつつもリングを引退します。しかし、彼女の伝説は終わりませんでした。実兄であるパン猪狩やショパン猪狩(後に「東京コミックショウ」を結成)と同じく芸能の血を引いていた彼女は、引退後にコメディエンヌ(お笑い芸人)へと華麗に転身したのです。女性お笑いトリオを結成して浅草の松竹演芸場などの舞台に立ち、持ち前の勝気なキャラクターと明るさで、今度はお茶の間にたくさんの笑顔を届けました。その功績が称えられ、1998年には女子プロレス殿堂入りを果たしています。

 当時の女子プロレス界は、男子プロレスの祖である力道山から「プロレスは女性がやるものではない」と苦言を呈されるなど、多くの逆風に晒されていました。そのため、昭和30年代に入ると団体が乱立・離合集散を繰り返し、一時期は地上波から姿を消して地方のキャバレーや劇場をドサ回りで巡業する「暗黒時代」を迎えることになります。そんな過酷な時代にあっても、前座を務めた田山勝美、法城寺宏衣、堤麗子、橋本雅子らは、誇りを捨てることなく全国を回り、技を磨き続けました。彼女たちが命がけでマットを守り、観客を魅了し続けたからこそ、女子プロレスの灯が消えることはありませんでした。

 この時に撒かれた情熱の種は、やがて昭和42(1967)年の「日本女子プロレス」の旗揚げ、そしてマッハ文朱やビューティ・ペア、クラッシュ・ギャルズといった、後に日本中を熱狂させる全日本女子プロレス(全女)の大ブームへと脈々と受け継がれていくことになります。バーク一行との遭遇は、彼女たちにとってまさに「世界への扉」であり、その後の日本の女子プロレスが独自の進化を遂げて世界一の激しさを誇るようになるための、偉大なる原点だったと言えます。

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