レフェリーになった吉原功:昭和38年、リング裏表の人間模様

 昭和38(1963)年1月18日、金曜日。東京・渋谷の「リキ・スポーツ・パレス」で行われた興行で、その後の選手起用に影響を与える不測の事態が勃発しました。

 第5試合に行われた、ユセフ・トルコと駒秀雄によるシングルマッチ(15分1本勝負)。激しい攻防の最中、この一戦を裁いていたレフェリーの九州山が、ユセフ・トルコと激突して腰を痛めてしまったのです。試合は「5分58秒、体固め」でユセフ・トルコが勝利を収めましたが、九州山の負傷は深く、翌19日の平塚大会には出場したものの、20日の水戸大会からは休場を余儀なくされてしまいました。

 昭和38(1963)年1月18日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(15分1本勝負)、レフェリー:九州山
  ユセフ・トルコ(5分58秒、体固め)駒秀雄
   ※この試合で九州山は負傷する。

 全治1週間と診断された九州山の代わりに、水戸大会で臨時にレフェリーとしてリングに上がらされたのが吉原功でした。レスラーとしての本職とは勝手が違う慣れぬ仕事に、吉原功は悪戦苦闘を強いられます。試合後、思わず「レスリングをやっている方が楽だ」とぼやいた吉原功に対し、ベテランレフェリーの沖識名はニヤニヤしながら「レフェリーのありがたみが分かっただろう」と話しかけました。張り詰めた興行の舞台裏で交わされた、当時の人間関係が垣間見えるエピソードです。

 その後、負傷した九州山がいつから正式に復帰したのか、現時点では正確な日付は分かっていません。しかし、1月25日に愛知県の豊橋市体育館で行われた6人タッグマッチ(力道山、吉村道明、遠藤幸吉組対ジェス・オルテガ、トニー・マリノ、ジ・エクスキューショナー組の60分3本勝負)では、メインエベントのサブレフェリーとして九州山がリングサイドに登場している姿が確認されています。

 この豊橋大会のメインイベントは、非常に激しい展開となりました。1本目は一度、ジェス・オルテガが遠藤幸吉に体固めでフォール勝ちを収めたものの、ジ・エクスキューショナーによる凶器攻撃があったため判定が覆り、「18分53秒、反則勝ち」で力道山組が先制します。続く2本目も、外国人側の攻撃によってレフェリーの沖識名とサブレフェリーの九州山が場外でKOされてしまうという一戦となり、わずか3分14秒、オルテガ組の反則負けという裁定が下され、結果2対0で力道山組が勝利を収めました。

 そして、九州山がレフェリーとして再びリングに上がった姿がはっきりと確認できるのは、2月8日のリキ・パレス大会でした。その第5試合に組まれたカードは、「吉原功対ユセフ・トルコ」による東スポ杯争奪戦(20分1本勝負)だったのです。

 昭和38(1963)年2月8日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□東スポ杯争奪戦(20分1本勝負)、レフェリー:九州山
  吉原功(7分30秒、体固め)ユセフ・トルコ

 九州山にけがをさせたユセフ・トルコと、九州山の負傷によって慣れないレフェリー業を任されぼやいていた吉原功。このふたりが対戦するカードを、復帰した九州山自らがレフェリングするという構図は、非常に興味深い巡り合わせと言えます。試合は「7分30秒、体固め」で吉原がトルコを破りましたが、リング上に渦巻く3人の因縁を想像すると、当時のプロレス界の奥深さが伝わってきます。

 また、このシリーズ中には、リング外でも懐かしい顔ぶれが話題を集めていました。1月24日の台東体育館大会のリングサイドに、すでに引退していたふたりの元レスラー、藤田山と長谷川丹次が姿を現したのです。

 当時の新聞記事によると、長谷川丹次はレスラー引退後、現在は板前として働いていることが紹介されていました。一方の藤田山は、小人(こびと)プロレスのレフェリーを務めていると書かれています。藤田山のレフェリーとしての活動は、前年である昭和37(1962)年9月に行われた小人プロレスの興行を指しているものと考えられ、現役を退いたレスラーたちのそれぞれのセカンドキャリアを伝える貴重な記録となっています。

 アクシデントが生んだ臨時のレフェリー劇、復帰戦で交錯する3人の因縁、そしてリングを去った男たちのその後の人生――。昭和38年という時代、日本プロレスのリングとその周辺では、数多くの味わい深い人間ドラマが紡がれていたのです。

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