昭和38(1963)年3月22日、東京・渋谷のリキ・スポーツ・パレスで行われた前夜祭を皮切りに、蔵前国技館で華々しく幕を開けた「第5回ワールド大リーグ戦」。日本中が空前のプロレスブームに沸く中、激戦を繰り広げてきた一行は、4月13日の鹿児島大会を終え、いよいよ当時の「米国領・沖縄」での4連戦という大勝負へと向かいました。その記念すべき初戦の舞台こそが、南国の島、宮古島だったのです。
【沖縄4連戦のスケジュール】
4月14日(日曜日)米領沖縄平良市/琉球政府立宮古高等学校南運動場
4月15日(月曜日)米領沖縄那覇市/那覇バスターミナル裏広場
4月16日(火曜日)米領沖縄那覇市/那覇バスターミナル裏広場
4月17日(水曜日)米領沖縄那覇市/那覇バスターミナル裏広場
当初の予定では、一行は14日の午前10時(一説には11時半)に鹿児島を発ち、那覇を経由して昼前には宮古島へ入るはずでした。しかし、南国特有の気候や移動のトラブルが重なり、到着は午後3時と大幅に遅れてしまいます。それにもかかわらず、宮古空港には選手たちを一目見ようと、まさに「黒山のような観衆」が押し寄せていました。割れんばかりの歓声と大歓迎の中、力道山率いるレスラーたちは、息つく暇もなく用意されたバスへと乗り込み、決戦の場へと急いだのです。
しかし、詰めかけた熱狂的なファンの目は、ある「超目玉レスラー」の姿を必死に探していました。その男こそ、当時のプロレス界を震撼させていた「人間空母」ことヘイスタック・カルホーンです。体重273キロという、常軌を逸した巨体を誇るカルホーンは、主宰者である力道山と並ぶほどの凄まじい人気を博していました。
実は、この沖縄4連戦の最終日である4月17日には、カルホーンが力道山の持つ「NWA認定インターナショナルヘビー級王座」に挑戦する、選手権試合が予定されていたのです。プロレス界最高峰の至宝を懸けたこの大一番を前に、前哨戦としてのカルホーンの仕上がりを間近で見られるとあって、島民の期待は最高潮に達していました。それなのに、なぜ彼の姿が宮古島になかったのでしょうか。
そこには、前代未聞のユーモラスかつ衝撃的なエピソードが隠されていました。
鹿児島空港を出発する際、すでに一般のタラップではその巨体を支えきれず、なんと「荷物用のフォークリフト」で飛行機に運び込まれたというカルホーン。なんとか那覇空港まではたどり着いたものの、そこから宮古島へと向かう琉球航空の特別チャーター機(小型のプロペラ機)を前にして、ついに恐れていた事態が巻き起こります。なんと、彼の規格外の体重が原因で、飛行機の「重量制限」に引っ掛かってしまったというのです。
「カルホーンを乗せたら、飛行機が離陸できない――」
17日のタイトルマッチを控えた超大物レスラーの欠場ですから、これが本当に深刻な航空上の安全基準によるものだったのか、あるいは「稀代のプロモーター」でもあった力道山が、17日の決戦に向けて世間の関心をさらに煽るために仕掛けた壮大なパフォーマンス(演出)だったのかは、今となっては歴史の闇の中です。しかし、本物の「人間空母」の迫力を目撃できると信じて疑わなかった宮古島のファンにとって、これが大きな落胆であったことは言うまでもありません。
それでも、残された超一流レスラーたちは、そんな落胆を吹き飛ばすほどの凄まじいファイトを島民に見せつけることになります。
昭和38年4月14日(日曜日)、米領沖縄平良市/琉球政府立宮古高等学校南運動場
試合開始:午後4時、観衆:6000人(20000人説、25000人説あり)
1)シングルマッチ(15分1本勝負)
吉原功(時間切れ)大坪清隆
2)シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(6分14秒、逆片エビ固め)長沢秀幸
3)シングルマッチ(30分1本勝負)
サンダー・ザボー(5分24秒、体固め)マンモス鈴木
4)ワールドリーグ公式戦(8分3ラウンド1本勝負)、レフェリー:ユセフ・トルコ
ジャイアント馬場(1R6分8秒、逆エビ固め)ボブ・エリス
5)ワールドリーグ公式戦(8分3ラウンド1本勝負)
パット・オコーナー(1R5分31秒、エビ固め)アントニオ猪木
6)シングルマッチ(45分3本勝負)
ジノ・マレラ(2-0)遠藤幸吉
①マレラ(5分48秒、体固め)遠藤
②マレラ(0分28秒、体固め)遠藤
7)6人タッグマッチ(60分3本勝負)
力道山&吉村道明&グレート東郷(2-0)キラー・コワルスキー&フレッド・アトキンス&キラー・X
①力道山(9分11秒、体固め)X
②東郷(9分55秒、体固め)コワルスキー
宮古高等学校の南運動場を埋め尽くした観衆は、公式発表の6000人という数字をはるかに超え、2万人から2万5000人に達していたとも言われています。当時の宮古島の全人口が約5万8千人であったことを考えれば、実に島民の「2人に1人」近くがこの場所に集結していた計算になります。
試合の途中、南国特有のはげしい豪雨に見舞われ、会場はぬかるみと化しました。しかし、誰一人として席を立とうとはしませんでした。若き日のジャイアント馬場やアントニオ猪木が躍動し、メインイベントでは王者・力道山が代名詞の空手チョップで巨漢外国人たちをなぎ倒す。その一挙手一投足に、満員の観衆は泥まみれになりながら歓声をあげ、未知のエンターテインメントであるプロレスの魅力を全身で堪能したのです。
なお、当時の「ワールド大リーグ戦」では、通常1回の興行で10試合前後が行われるのが一般的でした。しかし、この日の宮古島大会はわずか7試合で幕を閉じています。これ以上の試合を組む時間が、物理的に残されていなかったのです。
なぜなら、熱戦を終えたレスラー一行は、息を整える間もなく午後6時には宮古空港を発ち、再び那覇へと飛び立たなければならなかったからです。那覇空港への到着は午後7時。そこから待っていたのは、夜の国際通りを埋め尽くす大パレードでした。
カルホーンの不在というアクシデントや、分刻みの過酷なスケジュール、そして激しい雨をも熱狂へと変えてみせた昭和のプロレス興行。それは4月17日の大決戦へと向かう熱気をも孕んだ、宮古島の歴史に深く刻まれる「奇跡のような一日」だったのです。