[昭和27(1952)年]
=ハワイ遠征=
昭和27(1952)年3月2日(日曜日)
米国/ハワイ州ホノルル/ホノルル・シビック・オーデトリアム
□シングルマッチ(30分1本勝負)、レフェリー:沖識名
力道山(時間切れ)ラッキー・シモノビッチ
力道山が元ホノルルの警察官であるラッキー・シモノビッチと初めて対戦したのは、自身初の海外遠征のときでした。ホノルルでの第3戦として行われたこの試合では、現地の強豪であったシモノビッチを相手に、クリーンかつスピード感あふれる素晴らしい攻防が展開されました。試合は一進一退のまま30分が経過し、惜しくも時間切れ引き分けに終わっています。なお、この記念すべき初対決を裁いたのは、当時ハワイでレフェリーとして活躍していた沖識名でした。
昭和27(1952)年5月4日(日曜日)
米国/ハワイ州ホノルル/ホノルル・シビック・オーデトリアム
□シングルマッチ/ノンタイトル(45分3本勝負)、レフェリー:沖識名
力道山(2-1)ラッキー・シモノビッチ
①力道山(18分25秒、ギブアップ)シモノビッチ
②シモノビッチ(23分2秒、フォール勝ち)力道山
③力道山(時間切れ判定勝ち)シモノビッチ
※R・シモノビッチはNWA認定ハワイヘビー級王者。
初対決から2か月後、シモノビッチとの再戦が行われました。対戦相手のシモノビッチは、3月30日のホノルル大会でエイブ・ケーシーを破り、ハワイヘビー級王者となったばかりの絶頂期にありました。
45分3本勝負で行われたこの試合、1本目は力道山が柔道の投げ技を連発し、シモノビッチから見事なギブアップを奪います。続く2本目は、シモノビッチが十八番のドロップキックを連発してフォール勝ちを収め、試合をタイに戻しました。
運命の3本目は、両者一歩も譲らぬままどちらもフォールを奪うことなく時間切れとなりましたが、レフェリーは力道山の判定勝ちとしました。
なお、この試合はノンタイトルマッチとして行われています。また、試合開始前には力道山がレフェリーのフランク・メリルを拒否したため、代わりに沖識名がリングに上がって試合を裁くという一幕もありました。
[昭和30(1955)年]
=ハワイ遠征=
昭和30(1955)年4月24日(日曜日)
米国/ハワイ州ホノルル/ホノルル・シビック・オーデトリアム
□シングルマッチ/ノンタイトル(30分1本勝負)
力道山(時間切れ)ラッキー・シモノビッチ
※力道山は日本ヘビー級王者。
力道山が3度目のハワイ遠征を行った際に、再び両者は相まみえることとなりました。木村政彦や山口利夫を撃破して日本ヘビー級のトップに躍り出た力道山は、2週間前にゼブラ・キッド(ジョージ・ボラス)にハワイヘビー級王座を奪われて無冠となったシモノビッチと対戦します。試合は終始クリーンな展開となりましたが、またしても決着がつかず時間切れとなってしまいました。
[昭和31(1956)年]
=マナスル登山基金募集、プロレスリング国際大試合=
昭和31(1956)年5月3日(木曜日、祝日)、大阪府大阪市/大阪府立体育会館
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分3本勝負)、レフェリー:マイク・マズルキー
力道山(2-1)ラッキー・シモノビッチ
①力道山(10分28秒、体固め)シモノビッチ(10分48秒説あり)
②シモノビッチ(3分45秒、体固め)力道山
③力道山(1分55秒、リングアウト)シモノビッチ
※力道山はJWA認定アジアヘビー級&日本ヘビー級王者。
昭和31年、シャープ兄弟とともにシモノビッチが初来日を果たします。その際には「ヨーロッパヘビー級王者」の肩書が付けられていました。前年にオールアジアヘビー級王座も獲得して二冠王になっていた力道山は、強烈な空手チョップで1本目を奪います。
しかし2本目はレフェリーの肩を越えるシモノビッチのドロップキックを浴び、フォールを奪われました。運命の3本目は、力道山の空手チョップによって額から鮮血を流したシモノビッチが場外に落とされ、そのままリングに戻ることができずカウントアウトとなりました。
昭和31(1956)年5月12日(土曜日)、福島県郡山市/郡山市営開成山球場
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分3本勝負)
力道山(2-0)ラッキー・シモノビッチ
①力道山(22分55秒、レフェリーストップ)シモノビッチ(22分15秒説あり)
②力道山(試合放棄)シモノビッチ
※力道山はJWA認定アジアヘビー級&日本ヘビー級王者。
日本での2度目の対決は郡山で実現しました。1本目は、力道山の空手チョップによって額を割られて猛烈に流血したシモノビッチに対し、これ以上の試合続行は不可能であるとの判定が下されました。 続く2本目は、シモノビッチがそのまま試合を放棄したため、力道山のストレート勝ちとなっています。
昭和31(1956)年5月15日(火曜日)、岩手県盛岡市/盛岡馬検場
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分3本勝負)
力道山(2-1)ラッキー・シモノビッチ
①力道山(15分49秒、体固め)シモノビッチ
②シモノビッチ(6分21秒、腕固め)力道山
③力道山(1分48秒、エビ固め)シモノビッチ
※力道山はJWA認定アジアヘビー級&日本ヘビー級王者。
このシリーズにおける最後の対戦の舞台は盛岡でした。1本目は力道山が15分過ぎに体固めで先制し、2本目はシモノビッチが腕固め(おそらくキーロックのことだと思われます)で取り返す一進一退の攻防となります。最後は力道山が鮮やかなエビ固めで3本目を奪い、快勝しました。
[昭和32(1957)年]
=ハワイ遠征=
昭和32(1957)年3月3日(日曜日)
米国/ハワイ州ホノルル/ホノルル・シビック・オーデトリアム
□NWA認定ハワイヘビー級王座挑戦者決定戦/ノンタイトル(45分3本勝負)
力道山(0-0)ラッキー・シモノビッチ
①力道山(時間切れ)シモノビッチ
※力道山はJWA認定アジアヘビー級&日本ヘビー級王者。
シモノビッチの初来日の翌年、今度は力道山が彼のホームリングに乗り込みます。3月3日に両者は、トム・ライスの保持するNWA認定ハワイヘビー級王座への挑戦権を懸けて激突しましたが、45分間ノーフォールで戦い抜いて、またしても引き分けに終わりました。
試合後、プロモーターのアル・カラシックは挑戦者としてシモノビッチを指名すると同時に、力道山の挑戦権がなくなったわけではないことを表明しています。これで両者のホノルルにおける対戦は、4連続の時間切れとなりました。
[昭和34(1959)年]
=プロレスリング国際大試合=
昭和34(1959)年1月22日(木曜日)、愛知県名古屋市/名古屋市金山体育館
□JWA認定オールアジアヘビー級選手権試合(61分3本勝負)
力道山(2-0)ラッキー・シモノビッチ
①力道山(18分47秒、ステップオーバートーホールド)シモノビッチ
②力道山(18分0秒、レフェリーストップ)シモノビッチ
※初代王者力道山が4度目の防衛に成功する。
両者の対戦はその翌年にも続きます。再来日を果たしたシモノビッチは、力道山の保持するオールアジアヘビー級王座に挑戦しました。前年にNWA認定インターナショナルヘビー級王者になり、日本ヘビー級王座を返上していた力道山でしたが、シモノビッチにインターのベルトには挑戦させませんでした。
1本目は凄まじい殴り合いとなり、両者が額から流血を見る事態となります。その中で力道山は、シモノビッチからステップオーバー・トーホールドで先取しました。続く2本目は、力道山のタックルをかわそうとジャンプしたシモノビッチが、股間を力道山の頭にぶつけてしまい、そのまま試合続行不可能となってしまいました。
昭和34(1959)年2月6日(金曜日)、東京都文京区/後楽園ジムナジアム
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分3本勝負)
力道山(2-1)ラッキー・シモノビッチ
①力道山(19分31秒、体固め)シモノビッチ
②シモノビッチ(4分26秒、キーロック)力道山
③力道山(20分19秒、逆エビ固め)シモノビッチ
※力道山はNWA認定インターナショナルヘビー級&JWA認定オールアジアヘビー級王者。
2週間後に両者はノンタイトルで再戦しました。1本目は、ドロップキックの体勢に入ろうとしたシモノビッチに力道山が強烈な空手チョップを叩き込んで先制します。2本目は、力道山がシモノビッチのキーロック(ショートアームシザーズ)に捕まり、無念のギブアップを喫しました。運命の3本目は、時間切れ間際に力道山が逆エビ固めを決めて、シモノビッチにタップさせました。
[昭和36(1961)年]
=プロレス新春国際試合=
昭和36(1961)年2月3日(金曜日)、兵庫県神戸市/神戸市立王子体育館
□シングルマッチ/ノンタイトル(60分3本勝負)、レフェリー:ユセフ・トルコ
力道山(2-0)ラッキー・シモノビッチ
①力道山(10分29秒、反則勝ち)シモノビッチ
②力道山(2分23秒、ノックアウト)シモノビッチ
※力道山はNWA認定インターナショナルヘビー級&JWA認定オールアジアヘビー級王者。
2年後に3度目の来日を果たしたシモノビッチと神戸で対戦しました。1本目はシモノビッチが力道山をコーナーに逆さ吊りにし、腹部にパンチとキックの雨嵐を浴びせます。これに対し、レフェリーのユセフ・トルコはシモノビッチの反則負けを宣言しました。
2本目は、すでに流血しているシモノビッチが荒れ狂います。場外に舞台を移して両者は激しくやり合いますが、力道山がシモノビッチの額をいやというほどマットに叩きつけると、シモノビッチはそのまま場外で失神してしまいました。
これが両者のシングルマッチにおける最後の戦いとなりました。次にシモノビッチが来日するのは、力道山が逝去した翌年の「プロレス国際戦・新春シリーズ」のことです。