昭和35年9月30日は、「夏の国際戦」の最終日でした。この日は、ジャイアント馬場(馬場正平)とアントニオ猪木(猪木完至)の2人がデビューを果たした記念すべき日でもあります。デビュー戦において、馬場は田中米太郎に勝利を収めたものの、猪木は惜しくも大木金太郎に敗れてしまいました。
それから昭和50年4月4日までの約15年間にわたり、大木と猪木によるシングルマッチは39回も組まれています。15年間とはいうものの、昭和39年2月28日のリキパレス大会の後は、昭和49年10月10日の蔵前国技館大会まで両者の試合が行われなかったため、実際には約10年間の空白期間が存在しています。
[昭和35(1960)年]
=プロレス国際試合=
昭和35(1960)年9月30日(金曜日)、東京都台東区/東京都台東区立台東体育館
□シングルマッチ/猪木完至デビュー戦(10分1本勝負)、レフェリー:九州山義雄
大木金太郎(7分6秒、逆腕固め)猪木完至
猪木のデビュー戦が、両者にとっての初対決でした。猪木は健闘したものの、残念ながら大木の逆腕固めの前にギブアップを喫しています。
[昭和36(1961)年]
=第3回ワールド大リーグ戦=
昭和36(1961)年5月9日(火曜日)、広島県呉市/呉市営二河プール
□シングルマッチ(15分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
昭和36(1961)年5月28日(日曜日)、栃木県宇都宮市/栃木県営スポーツセンター
□シングルマッチ(15分1本勝負)
大木金太郎(9分55秒、片腕固め)猪木完至
次に両者が対戦したのは、約7か月後の呉大会でした。当時は第3回ワールドリーグ戦が開催されている最中でした。この日(シリーズ第7戦)は猪木が健闘を見せ、先輩である大木を時間切れ引き分けに持ち込んでいます。しかし、その20日後の宇都宮大会(第22戦)では、猪木は大木の片腕固めに屈することとなりました。
=ワールドリーグ戦選抜者国際試合=
昭和36(1961)年7月1日(土曜日)、神奈川県平塚市/平塚市立見附台体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(9分56秒、体固め)猪木完至
第3回ワールドリーグ戦が終了すると選抜戦シリーズに入りますが、このシリーズ中に両者が対戦したのは一度だけでした。それは7月1日(第2戦)の平塚大会のことで、この日は大木が快勝を収めています。
=プロレス国際試合・秋の陣=
昭和36(1961)年11月13日(月曜日)、新潟県糸魚川市/糸魚川市立糸魚川小学校体育館
□シングルマッチ(45分3本勝負)
大木金太郎(2-1)猪木完至
①大木(11分3秒、体固め)猪木
②猪木(4分22秒、逆さ押さえ込み)大木
③大木(4分6秒、体固め)猪木
プロレス国際試合・秋の陣は全40戦というロングランの興行でしたが、両者が顔を合わせたのは最終戦の糸魚川大会のみでした。この試合は、両者にとって唯一となる3本勝負で行われています。セミファイナルとして組まれたこの一戦は、大木が2対1で勝利を収めました。外国人選手が少なかったという背景もあるものの、デビューからわずか約1年でセミファイナルに抜擢された猪木の存在感には、改めて驚かされます。
=プロレス国際試合・冬の陣=
昭和36(1961)年12月8日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(30分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
短期シリーズであるプロレス国際試合・冬の陣でも、1試合が組まれました。それは12月8日(第4戦)のリキパレス大会でのことで、この日は30分間にわたり激しく闘ったものの、決着はつきませんでした。
[昭和37(1962)年]
=プロレス国際試合・新春シリーズ=
昭和37(1962)年1月16日(火曜日)、岐阜県岐阜市/岐阜市民センター
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
年が明けて、昭和37年の最初のシリーズ(新春シリーズ)では、1月16日(第3戦)の岐阜大会で激突しました。この日も20分間にわたり熱戦を繰り広げたものの、ドローに終わっています。
=プロレス国際試合=
昭和37(1962)年3月2日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
昭和37年の春に開催された国際試合では、3月2日(第3戦)のリキパレス大会で両者が対戦し、前回と同様に20分間闘い抜いて引き分けに終わっています。
この時期、力道山は第4回ワールドリーグ戦に招聘する外国人レスラーの交渉のために渡米していました。そのため、この日のメインイベントは豊登、遠藤幸吉組がミスター・アトミック・リッキー・ワルドー組と対戦しています。しかし、遠藤が3本目を試合放棄したことにより、日本組は2対1で敗北を喫しました。また、セミファイナルでは吉村道明がラリー・ジャクソンに8分足らずでストレート勝ちを収めています。
大木と猪木の一戦はその前の試合として組まれていました。この日の興行は全国にテレビで生中継されたため、おそらく大木対猪木の試合も一部が放映されたものと考えられます。
=第4回ワールド大リーグ戦=
昭和37(1962)年5月10日(木曜日)、大阪府大阪市/大阪府立体育会館
□シングルマッチ(15分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
昭和37(1962)年5月16日(水曜日)、岐阜県岐阜市/岐阜市民センター
□シングルマッチ(30分1本勝負)
大木金太郎(15分21秒、体固め)猪木完至
春の本場所である第4回ワールドリーグ戦では、2度の対戦がありました。5月10日(第19戦)に行われた大阪2連戦の初日は、15分間にわたり闘い抜いたものの引き分けに終わっています。続く対戦は、5月16日(第24戦)の岐阜大会でした。ちょうど4か月前(1月16日)にも同会場で両者は激突して引き分けていましたが、今回は大木がフォール勝ちを収めています。
=プロレス国際選抜戦=
昭和37(1962)年6月20日(水曜日)、山口県宇部市/宇部市俵田翁記念体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
昭和37(1962)年6月27日(水曜日)、島根県出雲市/出雲市営球場
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
ワールドリーグ戦終了後に行われた選抜戦シリーズでも、2度の対戦がありました。6月20日(第21戦)の宇部大会と、6月27日(第24戦)の出雲大会での一戦ですが、いずれも20分間フルに闘い抜き、引き分けという結果に終わっています。
=プロレス国際試合秋の陣=
昭和37(1962)年9月17日(月曜日)、群馬県館林市/分福球場(茂林寺球場)
□シングルマッチ(30分1本勝負)
大木金太郎(20分35秒、体固め)猪木完至
昭和37(1962)年9月23日(月曜日)、石川県七尾市/七尾城山野球場
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
昭和37(1962)年9月26日(水曜日)、秋田県大曲市/大曲市営球場
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
昭和37(1962)年9月29日(土曜日)、青森県十和田市/十和田市営相撲場
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
昭和37(1962)年10月2日(火曜日)、北海道旭川市/旭川市体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
昭和37(1962)年10月5日(金曜日)、北海道札幌市/北海道立札幌中島スポーツセンター
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
昭和37(1962)年11月2日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
選抜戦シリーズに続くプロレス国際試合・夏の陣では、両者の対戦は見られませんでした。しかし、その次のプロレス国際試合・秋の陣においては、1シリーズ中としては最多となる7度もの対戦が組まれています。9月17日(第4戦)の館林大会では大木が勝利を収めたものの、残りの6戦はすべて時間切れ引き分けに終わりました。
10月5日(第20戦)に行われた札幌2連戦の2日目はテレビ収録が実施され、当日の深夜に放映されています。この日のメインイベントでは、スカル・マーフィ、ゴリラ・マコニー組が、力道山・豊登組の保持するオールアジアタッグ王座に挑戦する予定でした。しかし、豊登が欠場したため、吉村道明が力道山のパートナーを務めて同王座の防衛戦に臨んでいます。セミファイナルは遠藤幸吉とアート・マハリックによる3本勝負、その前の試合がマンモス鈴木とビッグ・ムース(ショーラック)の1本勝負でした。大木対猪木の一戦はそのさらに前の試合であったため、残念ながら放映はされていないと考えられます。
最終戦(第42戦)のリキパレス大会でもテレビ収録があり、当日深夜に放映されました。メインイベントは力道山とムースによるノンタイトルの3本勝負でした。大木対猪木は全10試合中の第6試合として組まれていたため、こちらもやはり放映はされていないものと思われます。
=プロレス国際試合沖縄シリーズ=
昭和37(1962)年11月7日(水曜日)、米領沖縄名護町/名護町営陸上競技場
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)猪木完至
同じ外国人メンバーで迎えた沖縄シリーズでは、11月7日(第4戦)の名護大会で両者が激突し、20分間にわたり闘い抜いたもののドローに終わっています。
=プロレス国際戦冬の陣=
昭和37(1962)年11月23日(金曜日、祝日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ/東スポ賞争奪戦(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)アントニオ猪木
この年最後のシリーズとなったプロレス国際戦・冬の陣でも、両者の対戦が組まれました。11月23日(第2戦)のリキパレス大会で行われた一戦は「東スポ賞争奪戦」として注目を集めましたが、この試合も時間切れ引き分けに終わっています。
この日はテレビの生中継が実施されていました。しかし、メインイベントの力道山・吉村道明組対ジェス・オルテガ、アート・マハリック組の一戦が60分フルタイムドローの大熱戦となったこと、さらに大木対猪木が全10試合中の第7試合であったことから、2人の試合が放映されることはなかったと考えられます。
[昭和38(1963)年]
=プロレス国際試合新春シリーズ =
昭和38(1963)年1月18日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)アントニオ猪木
昭和38(1963)年1月25日(金曜日)、愛知県豊橋市/豊橋市体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
大木金太郎(6分40秒、両者リングアウト)アントニオ猪木
昭和38(1963)年1月28日(月曜日)、愛知県名古屋市/名古屋市金山体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)アントニオ猪木
年が明けた昭和38年の最初のシリーズ(新春シリーズ)では、両者の試合が3回組まれました。まずは1月18日(第3戦)のリキパレス大会で対戦し、20分間にわたる激闘の末に引き分けています。続いて1月25日(第9戦)の豊橋大会では、両者にとって初となるリングアウトによる引き分けを記録しました。そして、1月28日(第12戦)の名古屋大会での再戦でも、再び20分時間切れのドローに終わっています。
このうちリキパレス大会はテレビで生中継され、豊橋大会は当日の深夜に録画放映されました。大木対猪木の一戦は、リキパレス大会では全10試合中の第7試合に、豊橋大会では全11試合中の第9試合に組まれていました。この構成から、豊橋大会での激闘の様子は実際に放映されたと考えられます。
=プロレス国際試合=
昭和38(1963)年2月15日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(30分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)アントニオ猪木
昭和38(1963)年3月2日(土曜日)、東京都新宿区/新宿区立体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
大木金太郎(9分40秒、両者カウントアウト)アントニオ猪木
新春シリーズの追撃戦のような形で行われたプロレス国際試合でも、両者による2度の対戦が見られました。
まず2月15日(第3戦)のリキパレス大会では、30分間にわたり激しく闘い抜いたものの時間切れとなり、続く3月2日(第5戦)の新宿大会では、両者にとって2度目となる時間内での引き分けに終わっています。いずれもテレビの生中継が実施された大会でした。
大木対猪木の一戦は、どちらの大会においても全9試合中の第7試合という好位置に組まれていたため、実際にテレビで放映されていたと考えられます。当時のファンにとっても、まさに「名勝負数え唄」と呼ぶにふさわしい珠玉のライバル対決であったのではないでしょうか。
=東京オリンピック協賛、第5回ワールド大リーグ戦=
昭和38(1963)年3月31日(日曜日)、徳島県徳島市/徳島市市民会館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)アントニオ猪木
昭和38(1963)年4月7日(日曜日)、福岡県北九州市/北九州市立若松文化体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)アントニオ猪木
昭和38(1963)年4月16日(火曜日)、米領沖縄那覇市/那覇バスターミナル裏広場(旭橋広場)
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)アントニオ猪木
昭和38(1963)年5月1日(水曜日)、秋田県本荘市/由利郡畜産組合広場(大泉寺山畜産広場)
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)アントニオ猪木
昭和38(1963)年5月4日(土曜日)、北海道函館市/函館大火慰霊堂前広場(大森公園内)
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)アントニオ猪木
超ロングランの興行となった第5回ワールドリーグ戦では、シングルマッチで計5回もの対戦がありました。
3月31日(第8戦)の徳島大会、4月7日(第14戦)の北九州大会、4月16日(第23戦)の那覇大会、5月1日(第36戦)の東由利大会、そして5月4日(第39戦)の函館大会のいずれにおいても、20分間のドローという結果に終わっています。
このうち那覇大会のみ4月19日に録画中継されていますが、両者の一戦は全10試合中の第5試合として組まれていたため、残念ながら放映はされていなかったものと思われます。
=オリンピック協賛、プロレス国際戦・夏の陣=
昭和38(1963)年8月2日(金曜日)、東京都台東区/東京都台東区立台東体育館
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)アントニオ猪木
昭和38(1963)年8月15日(木曜日)、山梨県甲府市/山梨県営飯田町グラウンド
□シングルマッチ(30分1本勝負)、レフェリー:九州山
大木金太郎(時間切れ)アントニオ猪木
WWA世界選手権シリーズ、オリンピック基金募集プロレス試合、そして力道山結婚記念プロレス大会においては、両者の直接対決は行われませんでした。しかし、その後に開催されたプロレス国際戦・夏の陣では、2回にわたり対戦が組まれています。8月2日(第7戦)の台東体育館大会と、8月15日(第18戦)の甲府大会での一戦ですが、いずれも時間切れ引き分けに終わりました。
このうち台東体育館での試合はテレビで生中継されましたが、両者の一戦は全10試合中の第6試合であったため、おそらく放映枠には入っていなかったと考えられます。
=プロレス国際戦・続夏の陣 =
昭和38(1963)年8月23日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(20分1本勝負)
大木金太郎(時間切れ)アントニオ猪木
続くプロレス国際戦・続夏の陣では、8月23日(開幕戦)のリキパレス大会において、20分間の引き分け試合を行いました。この大会はテレビで生中継が実施されています。しかし、全10試合中の第7試合として組まれた大木対猪木の一戦は、おそらくテレビに映ることはなかったものと思われます。
その後、大木は8月30日のリキパレス大会を最後に渡米したため、しばらく両者の対戦は途絶えることとなりました。そして大木は、恩師である力道山の訃報を遠く海外の地で聞くことになります。
[昭和39(1964)年]
=プロレス国際戦・春の陣=
昭和39(1964)年2月24日(月曜日)、大阪府堺市/金岡体育館
□シングルマッチ(30分1本勝負)
大木金太郎(11分58秒、足4の字固め)アントニオ猪木
昭和39(1964)年2月28日(金曜日)、東京都渋谷区/リキ・スポーツ・パレス
□シングルマッチ(30分1本勝負)
大木金太郎(10分0秒、逆片エビ固め)アントニオ猪木
渡米していた大木が帰国して戦線に復帰したのは、昭和39年2〜3月に開催されたプロレス国際戦・春の陣でした。このシリーズでは、猪木との2度の対戦が行われています。
シリーズ第8戦の堺大会では、新兵器である足4の字固めで快勝を収めました。また、第10戦のリキパレス大会でも逆片エビ固めで猪木からギブアップを奪い、海外遠征の確かな成果を見せつけています。
その後、3月6日にリキ・スポーツ・パレスにおいて「豊登、猪木渡米壮行試合」が開催され、この日の試合を最後に猪木は海外へと飛び立つことになりました。
[昭和49(1974)年]
=闘魂シリーズ第1弾(新日本プロレス)=
昭和49(1974)年10月10日(木曜日、祝日)、東京都台東区/蔵前国技館
□NWF認定世界ヘビー級選手権試合(時間無制限1本勝負)
アントニオ猪木(13分13秒、体固め)大木金太郎
スペシャルレフェリー:豊登、サブレフェリー:ミスター高橋
※第13代王者A猪木が6度目の防衛に成功する。大木金太郎はNWA認定インターナショナルヘビー級王者。
猪木は海外で実力を蓄えた後、豊登とともに東京プロレスを旗揚げしました。しかし、団体運営が軌道に乗らなかったため、日本プロレスへと復帰することになります。
それは昭和42年のことで、同年5月5日から試合を行いましたが、当時の日本プロレスでは日本陣営の主力同士による対戦が避けられていたため、大木との激突が実現することはありませんでした。
その後、日本プロレスを離脱して新日本プロレスを旗揚げした猪木は、昭和49年10月10日に蔵前国技館において大木の挑戦を受け、NWF認定世界ヘビー級王座の防衛戦を行います。この時、かつて大木が所属していた日本プロレスはすでに崩壊してから1年半が経過していました。こうして孤高の存在となった大木を迎えて実現した、猪木との10年ぶりの対戦は、プロレス史に深く刻まれる名勝負となりました。
[昭和50(1975)年]
=第1回世界重量級プロレスリング大会(韓国プロレスリング連盟)=
昭和50(1975)年3月27日(木曜日)、大韓民国/ソウル特別市/奨忠体育館
□NWA認定インターナショナルヘビー級選手権試合(60分1本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
金一(13分38秒、両者リングアウト)アントニオ猪木
※第9代王者金一(大木金太郎)が3度目の防衛に成功する。
蔵前での激闘から5か月半が経過した昭和50年3月27日、舞台は大木の母国へと移ります。韓国・ソウルにおいて、猪木が大木の持つNWA認定インターナショナルヘビー級王座に挑戦する大一番が開催されました。
=第2回ワールド・リーグ戦(新日本プロレス)=
昭和50(1975)年4月4日(金曜日)、東京都台東区/蔵前国技館
□ワールドリーグ公式戦/ノンタイトル(30分1本勝負)、レフェリー:ミスター高橋
大木金太郎(1分16秒、リングアウト)アントニオ猪木
※大木金太郎はNWA認定インターナショナルヘビー級王者。
そして同年4月4日、蔵前国技館において、両者にとって生涯最後となるシングルマッチが行われました。第2回ワールドリーグ戦の公式戦として組まれたこの一戦では、大木が凄まじい頭突き連発の猛攻を見せ、見事にリングアウト勝ちを収めています。
激動の昭和プロレス史を彩った大木と猪木の果てなき名勝負数え唄は、不思議な運命の糸で結ばれていました。若き日に台東体育館で大木が手にした栄冠は、15年後の最終決戦、同じ台東区にある蔵前国技館においても再び大木の頭上に輝いたのです。大木の勝利で始まり、大木の勝利で終わるという、あまりにも美しく劇的な結末をもって、2人のシングルマッチ全39戦の歴史は永遠の伝説となりました。