昭和35年(1960年)9月30日は、日本プロレス界にとって特別な日です。のちに日本マット界の2大巨匠となる、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の二人が華々しいデビューを飾った日でした。このデビュー戦で、馬場は田中米太郎に勝利を収めたものの、猪木は先輩である大木金太郎の前に沈んでしまいました。

この日のセミファイナルに行われたタッグマッチには、豊登と吉村道明が登場しました。その対戦相手を務めたのが、ラリー・ジャクソンとムーン・ミッチェルのコンビです。ジャクソンは昭和37年(1962年)まで日本プロレスの興行にたびたび登場しますが、パートナーであるミッチェルの名前は、この日の興行以外には見当たりません。このレスラーは一体誰だったのでしょうか。
その謎を解き明かしたのが、日本のプロレス史研究の第一人者である山口氏です。山口氏が発見したのは、昭和35(1960)年7月24日付の「スター=ニュース・ナショナル・シティ・アンド・チュラ・ビスタ」紙でした。これはアメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ郡のチュラビスタやナショナルシティで発行されている新聞ですが、そこには「ムース・ミッチェル」に関する記事が掲載されていたのです。この記事からは次のことが分かります。
- リングネームはムース・ミッチェル。
- カリフォルニア州チュラビスタ出身の35歳。
- 身長約183cm、体重約104kg
- 海軍上等兵曹で、元全海軍アマチュア王者。
- 数ヶ月前にプロレス界入りした。
- マントを身にまとってリングに登場する。
- キラー・コワルスキーやハンス・ヘルマン、マスクト・プリーチャーといった強敵を相手に17連勝を飾った。
- 在日海軍にいた頃、日本の相撲レスラーたちとの交流試合を行った。
- 日本で23勝4分けの戦績を収めた。力道山や柔道出身の樋口寛二とも引き分けた。
- 元相撲取りのラズムッテンとも好試合を演じた。
- ミッチェルは(1961年)1月に海軍を退役し、チュラビスタで家族と落ち着く予定。
- 彼の次の試合は(1960年)7月26日のサンディエゴ・コロシアムでの予定(注:この日のサンディエゴの試合の記録に彼の名前は残っていません)。
この地方紙の記事が書かれたのは、馬場・猪木両氏のデビュー戦の約2か月前(※7月24日時点)のことです。つまり、この時点で「ムース・ミッチェル」はすでに日本で試合を行っていたことになります。当時は、公式な記録には残らないような興行がたびたび開催されていたことが、いくつかの資料からうかがい知ることができます。ミッチェルもおそらく、そうした非公式の興行に出場していたのでしょう。
ただ、キラー・コワルスキーやハンス・ヘルマン、マスクト・プリーチャー(ミスター・アトミック)といったそうそうたる強豪を相手に「17連勝」したというのは、客観的に見て到底信じがたい内容です。また、日本の絶対的エースである力道山と引き分けたという記述にも疑問符がつきます。しかし、彼が本物のレスリング経験者であったとするならば、確かな実力を持っていた樋口寛治(のちのジョー樋口)と引き分けたという話については、十分にあり得る現実的なエピソードではないかと思います。
さらに山口氏はカリフォルニア州での「ムース・ミッチェル」の試合結果を調べて下さいました。
昭和35(1960)年4月16日(土曜日)
米国/カリフォルニア州フレスノ/フレスノ・メモリアル・オーデトリアム
□シングルマッチ
ムース・ミッチェル(0分58秒、勝ち)ワイルド・レッド・ベリー
昭和35(1960)年4月23日(土曜日)
米国/カリフォルニア州フレスノ/フレスノ・メモリアル・オーデトリアム
□ハンディキャップマッチ
ムース・ミッチェル(5分0秒、勝ち)ロイ・ヘファーナン
※R・ヘファーナンはアル・コステロとのファビュラス・カンガルーズで有名な選手。たぶん5分以内にヘファーナンがM・ミッチェルに勝たないと、自動的にミッチェルの勝ちとなるルール。
昭和35(1960)年5月7日(土曜日)
米国/カリフォルニア州フレスノ/フレスノ・メモリアル・オーデトリアム
□シングルマッチ
ムース・ミッチェル(3分42秒、勝ち)グレート・ジョン・L
昭和35(1960)年6月7日(火曜日)
米国/カリフォルニア州サンディエゴ/サンディエゴ・コロシアム
□シングルマッチ
ムース・ミッチェル(勝ち)ワイルド・レッド・ベリー
昭和35(1960)年6月21日(火曜日)
米国/カリフォルニア州サンディエゴ/サンディエゴ・コロシアム
□シングルマッチ
ムース・ミッチェル(勝ち)ワイルド・レッド・ベリー
昭和35(1960)年6月24日(金曜日)
米国/カリフォルニア州ロングビーチ/ロングビーチ・ミュニシパル・オーデトリアム
□シングルマッチ
ムース・ミッチェル(勝ち)ワイルド・レッド・ベリー
昭和35(1960)年6月28日(火曜日)
米国/カリフォルニア州サンディエゴ/サンディエゴ・コロシアム
□シングルマッチ
ムース・ミッチェル(勝ち)ワイルド・レッド・ベリー
昭和35(1960)年7月23日(土曜日)
米国/カリフォルニア州サンバナディーノ/サンバナディーノ・アリーナ
□シングルマッチ
ザ・プリーチャー(13分25秒、勝ち)ムース・ミッチェル
※ザ・プリーチャーはミスター・アトミック(クライド・スティーブンス)のこと。
山口氏の調査はさらに続きます。同氏が新たに発見したのは、昭和35年(1960年)8月14日付の「スター=ニュース・ナショナル・シティ・アンド・チュラ・ビスタ」紙の1記事でした。
そこには、「ムース・ミッチェル」が妻と二人の息子を伴い、駆逐艦USSブラウン号に乗ってハワイに到着したことが記されています。同艦はハワイに寄港した後、グアム、マニラ、香港、そして日本へと向かう予定であり、ミッチェル自身も日本滞在中に試合を行う計画があることが書かれていました。
さらにこの記事によって、彼の本名が「アーサー・E・ミッチェル」であることも判明します。なお、二人の息子のうち一人の名前が「アーサー・アール(Arthur Earl)」とされていることから、山口氏は、彼の本当の姓名が「アーサー・アール・ミッチェル・シニア」である可能性もあると分析しています。
これらの発見によって、公式記録に一度しかその名を残さなかった「ムーン・ミッチェル」が、実在した米海軍の猛者「アーサー・E・ミッチェル」であったことが見事に証明されました。新聞記事にあった「力道山と引き分けた」という誇大広告とも言える戦績は、おそらく彼が再び日本へ遠征するにあたり、現地プロモーター向けに箔をつけるためのセルフプロモーション(あるいはハッタリ)だったのでしょう。
公式な記録や大手のスポーツ紙だけを追っていては、決して辿り着くことのできない「幻のレスラー」の正体。山口氏による地道かつ緻密な在米地方紙の追跡調査は、記録の空白に埋もれていた一人の男の足跡を現代によみがえらせるとともに、創成期における日米プロレス界の知られざる交流の裏側を浮き彫りにする、極めて価値のある一歩となったのです。